猫があくびをするように、犬が遠吠えするようにそれは自然のもので。
秋を通り越して冬が来ても私にはなんの疑問も浮かばない。

たとえ、大事な教科書を忘れていても。


「やらかした…!」


がってーむ、と読み取れそうなほど頭を抱える私は窮地に立たされていた。
なんで朝、家を出るときに気づかなかったのだろう。
今日はなんだか寒いなーなんて呑気な事を思ってる場合じゃなかった。


「やばいやばい。よりにもよって数学の教科書を忘れるだなんて…!」


現在朝のHR終了後。すなわち1時間目が始まる5分前。


「5分じゃ家に取りにも帰れないし…他の教室に教科書を借りれる知り合いなんぞ居ない…。どうしよう。」


何故こんなにも絶望に満ち満ちているかといいますと、ご存知の通り数学の担当はあの鬼教師(担任でもあるが)。
呼び名の響きだけでも伝わると思うが、あの鬼は教科書やノートなど必需品を忘れるととても怖いのである。
前に1度だけ教科書を忘れた事があったのだが、その時はとても言葉に言い表せない程にこっ酷く怒られたものだ。
2度目はねぇ…とかいいつつ1度目でアレなのだから相当なのだろう。
それを考えると末恐ろしくてとてもじゃないが生きていける気がしない。
どうしたものか。まぁ、考えるよりも先に時間というものは無情にも流れていくのだから結果は見え見えで。


「おい、。何突っ立ってやがんだ。早く座れ。」

「は、はひ…。」

「?」


最悪だ。最悪だ。
目の前の教壇に聳え立った(?)鬼はHR同様そこに居る。
あぁどうしよう。挙動不審になりつつある私にさすがに疑問を抱いた鬼は気にしながらも時間通り授業を開始した。


「(あわわわわわわわ…どうしようどうしよう)」

「おい。さっきからなにそわそわしてやがんだ。」

「べべべ、別になんでもごぜぇませぇん!」

「アホか。」


最初こそ不審な目で見られたが授業を始めると集中して黒板に向かう鬼。
だけど鬼。されど鬼。
どこに目がついてるかわかったもんじゃない。


「教科書の49P。§3の問い2を黒野、解いてみろ。」

「はい。」


カツカツと黒板にチョークで書く音が私の命のカウントダウンを表しているようで、動悸が忙しなくなっていく。
終わるな、長引け。そう願わずにはいられないのだが、やはり時間というものはリ・ミゼラブル。
無事解き終わると解説とともに鬼がこちらを向いた。
コレが、私のカウント零である。


「…おい、。」

「は、はい…。」

「貴様…教科書は、どうした?」


前の席ほど教師から見えにくいなんて迷信だ。
私の席は教壇の目の前、すなわち一番見えにくいはずの最前列。
あまつさえ鬼は立っていて後ろのほうしか見えていないはず。はず。

なのに、一発でばれた。



「すみませんごめんなさい本当に申し訳ございません。…忘れました。」

「ロッカーには。」

「昨日勉強していたので自宅にございます。」

「他のクラスの奴らから借りるという選択肢は。」

「生憎、教科書を借りれる知り合いなどおりませぬ。」



沈黙した教室内に、鬼の嘆息だけがこだまする。
ただ息を吐き出しただけの行為が死刑宣告にも聞こえて身が縮み上がるのを感じた。
そして、鬼は言葉をはなった。


「おい隣の奴、机くっつけてこいつに見せてやれ。」


と。



「アレ…?」



一同、唖然。よく言えば(?)拍子抜け。
前回はクラスメートのまん前でこっ酷く叱られたのだからみんながびっくりするのもわけない。
あの鬼が、この前の勢いは何処へ!?天変地異の前触れか…。
さまざまな憶測が生徒たちの脳内を駆け巡る中、一番信じられなかったのは言わずもがな、私だろう。


「…どうした。さっさと見せてもらえ。」

「は、はぁ…え?…んと、はい。」


キャサリンは新学期に転向して来て夏休み中にはまた帰っていったので、今隣なのは少し話す程度の男子だ。
机は1列づつ離されているので、彼が人の良さそうな笑顔で机をくっ付けようと運んでいる。
それに悪いなぁと思いつつ自分も机を寄せた。


「では続いて下の問い3。。今すぐ解いてみろ。」


やはり鬼は鬼でしかなかったと言う事か。
今まさに見せてもらおうと、問題も一片たりとも見てない今現在。にもかかわらず、鬼は指してきた。
えぇ、えぇ。よーくわかっていましたとも、えぇ。
鬼は一筋縄ではいかないのだと。目が合った瞬間、口元にあの不気味な笑みを浮かべた気がした。

クラスメート達の哀れみを含んだ瞳も相まって私の中に、言い知れぬ感情がわきあがったのは言うまでも無い。

















 ♂♀

















時間は過ぎ、お昼休み。
私は日課になっている昼食の取り方をする気になれず、自席でうなだれていた。

1時間目にあんな事があったばかりだ。鬼を恨んでも見当違いも甚だしいのだが、この恨み晴らさずおくべしか。
とは思うものの、何もできないのだけれども。それさえ腹立たしい。
あの問題は出来た。それはもう、成績優秀の私に任せたらちょちょいのちょい、なのだが。
だけどその後に頂いた課題はいつもの6倍増しでした。


「こんなの1日で出来るかぁ!!」

「おやおや、随分憤っているみたいですね、さん。」

「は、八戒先生!?」

「こんにちは。来ないみたいなので、迎えに来ちゃいました。」


頭を抱え雄たけびを上げた私の背後から、笑顔が素敵な八戒先生がぬっと現れた。
それに吃驚した私は思わず声が上ずってしまい、奇声しか発せられない哀れな娘みたいな感じに写っていたにちがいない。
思い返せば思い返すだけ羞恥心が心の大半を多い尽くした。


「来ちゃいました、じゃないですって!私は行きませんよ!絶対に!!」

「そんな寂しい事言わないでくださいよ。泣いちゃいますよ?三蔵が。」

「あの鬼にも涙!?ないない。絶対ない。流すなら血の涙です。」

「随分な言われようですね…。それほど嫌なことをされたんですか?知ってますけど。」

「知ってるんですか…さすが情報が早いですね。」

「僕に知らないことなんてありません。そんなに褒めても何も出ませんよ?」

「いや、褒めてないです。」

「あっはは…困ったなぁ。」


何が面白いのか。さほど困ったように見えないのだが、平気で冗談を言う彼にとって挨拶程度のものなのだろうと推測する。
だけど、冗談の中に本心が垣間見れた気がして、悪寒が走った。


「いやですね、三蔵が早くとっ捕まえて来いってうるさくて…。」


ゾワリ。人間、命の危機に面すると第6感が騒ぐというのはあながち間違いではなかったようだ。
その証拠に、ホラ…危険は目の前、というか八戒先生の背後に。


「まぁ、一緒に迎えに来たんですケドね。あはははは。」


だから、どこがそんなに面白いのか原稿用紙40枚以上の理由をください。じゃないと納得できないんですって。



と、言うことで。とっ捕まった私は強制的に数学準備室に連行され、居心地悪くソファに座っている。
隣には鬼、目の前には笑顔の八戒先生。斜め前にはニヤケ顔のエロい人。
なんでこうも教師に囲まれなくてはならないのか。よりにもよって救いである悟空先生が見当たらないのもなんでなんだぜ。

窓の外では寒そうな風が静かに音を立てて吹いている。
少し早すぎやしないか、と思うんだけど室内にはすでにストーブが点いており私自身寒さは感じてない。
いや、違う意味合いでの寒さはひしひしと感じているのだけども。

そうじゃない。そういうことではないのだよ、私。
程よい暖かさに眠気が襲ってきたとか断じてない。ない。絶対ない。ないったらない。多分。

じゃなくて。なんなんだ。なんでこんな状況に立たされているのだろうか、私は。



「えっと…なんで私はこんなところn」

「教科書忘れて、あまつさえ血の涙がどう、だったか?」

「(ひぇぇぇぇ!)いやいや滅相もございませぇん!?言葉の綾ですよ綾。HAHAHA.」

「吊るし首だ。」

「本当にごめんなさぁぁぁぁぁい!!!」

「はぁ…。」



何やら頭を抱えてしまった。先ほどの私とは違った抱え方である。
その憂いを篭めた横顔が素敵、なんて思っちゃいませんぜ。
でも、何をそんなに悩んでいるのだろうか。ちょいと不安。

まさかこれは嵐の前の静けさとかなんとやらだというのか。
私、これ以上何か粗相をしましたっけ?
考えても何も思い浮かばないので、とりあえず怒られても否定しておけばいっか、と能天気な私。
しかしながら、鬼から次に発せられた言葉で、本日2度目となる拍子抜けを味わうこととなった。



「お前、最近ちゃんと寝てんのか?」



はて。この鬼は今なんと仰りまして?
さすがに信じられないと他2人の教師を見回すが、鬼同様心配そうな表情を浮かべていた。
ってか鬼が心配そうな顔?アレ。プライベートでもないのに鬼じゃなくて三蔵になってる。なんでなんだぜ?


「え、まぁ…相応な感じで?」

「暈かすんじゃねぇ。きちんと答えろ。」


お母さんそんな風に育てた覚えなんざねぇ!ってか!


「まぁ…ここ一週間、トータルで数えますと約5時間くらいですかね。」

「お前…。1週間って事は7日間か?」

「はい。もうそんなに経ってましたか。」

「ハァ・・・馬鹿か、お前は!」


やっぱり、なんでそんなに怒っているのかわかりかねました。



「さん。三蔵、もちろん僕らもですが、最近のさんの様子を心配しているんですよ。」



考えあぐねいていると八戒先生がフォローよろしく言った。
なるほど。合点いきました。でも、そんなに様子がおかしかったですかね。


「7日間ってゆーんだから、アレか。そっから3日後ぐらいだナ。ちゃん、バケツですっ転んだだろ?」

「う、はい。お恥ずかしい…。」

「体育もねぇのにジャージ着てっからな。」


そういえばそんな事もありました。みんなから変な目で見られたのは言うまでもない。


「その翌日、僕の毒舌を切り返す時キレがありませんでした。だから何かあったのかと心配したものです。」

「あんま聞いてなかったもので…すみません。」


と、いうかその判断の仕方はなんだろうか。


「その翌日。滅多にしなくなった遅刻(1時間程)をしやがった。」

「気づいたら寝てて飛び起きました。起きれたことに奇跡を感じざるをえません。」

「ぬっころすぞ。」


ごめんなさい。あの日は久しぶりに生活指導の紅孩児先生に怒られたものだ。そして心配もされた。
久しぶりだな。何かあったのか?と。


「そん次はー、体育の時!貧血でぶったおれたろ!」

「悟空先生!何時の間に居たんですか!」

「え、今。」

「あ、そうですか…。」


貧血って程、大げさなものじゃなかったけどただの立ちくらみだと貫き通して終わったような。
日差しも強かったし。


「そんで今日だ。あろう事か俺の授業で教科書を忘れやがった。」

「いや、それはただのうっかりかと。」

「あんだけ痛めつけたんだ。二度と忘れるわけがねぇだろう。特にお前の場合はな。」

「ひどいっ」


とまぁこんな感じで皆さんなりに心配してたんだよーって事で…なにこれ。涙出てくるわ。
問題を解かせたのは最終確認だったそうで。
前述にはなかったけど普段ならスラスラ解けたのに今日は手間取ってましたね、お恥ずかしい。


「みなさんご心配をおかけしました。明日は休みなのでたっぷり睡眠をとりたいと思います。」

「えぇ。そうされた方がいいでしょう。三蔵も、課題はそれで良いそうですよ。」

「………。」

「え!本当ですか?!やったぁぁぁあ!!!!」

「ホーント、甘ちゃんになるよなぁ三蔵サマってば、ヨッ!」

「腹へったー!」


蓋を開ければなんとやら。生活習慣やらなんやらずぼらな私のことを心配してるがための場だったなんて今でも信じられないくらい。
今までいっぱい迷惑とか掛けてきたのに大人の余裕っていいますか、ただ単にみんな根っからの甘ちゃんなんだなぁって再確認。
そんな彼らが好き。この学校に来て良かったと思ったのは何度目だろう。この幸せをかみ締めながら、私は夜、ぐっすりと睡眠できたのは言うまでも無い。
ちなみに、最初に気づいたはやっぱり三蔵だったのだと耳打ちしてださったのは八戒先生でした。







「という事だ。課題6割ましだからな。30時間寝ろ。」


「そんな無茶な!!!」



ホント、1日でできるか!















コレを幸せと呼ばず



    なんて呼ぶ。


        (あの時の不気味な笑みって、本当は苦虫を噛み潰していたんですね)












ATOGAKI
再始動での初陣作品でした。久しぶりに文を書いたんで感覚もなにもあったもんじゃない。
けれど、楽しんで、幸せを感じて頂けたらコレ幸いです。
30時間=トータル睡眠時間が5時間で×6倍の意味。

write:20101031