She never looks back






街の花屋で花を買った。真っ青なそれは包んでもらい小ぶりながらも花束にと頼んだ。


「貴方が買いに来てくださるのは久しぶりですね」


店員さんがそんな前の事を覚えてくれているとは露にも思わず気恥ずかしい反面、後ろめたくて。朗らかな笑顔に曖昧な返事しかできなかった。 まるで優しく励ますような花の香りに少しの息苦しさを覚え外に出れば雑踏を抜け目的地へと向かう。

昨日の帰還時のような重苦しさを残し街はいつもと変わらぬ速さで時を刻んでゆく、そんな中で取り残された私の時間。 後悔をしている。振り返ろうとしている。そのあるまじき感情を未だに抱えたまま、私は本来の自分に戻してもらおうと歩を進めた。

果たしてこんな私に花束を贈る資格があるのだろうか。敬愛する数少ない心のよすがのひとりであったあの人に。 豪快でいて喧しい声でまた笑ってくれるだろうか。生意気な後輩だと、私に手を伸ばして背を押してくれるだろうか。


「許されるならば貴方に――」








 ―曰く、彼女の目は口ほどに物を言う―





調査兵団には『冷酷人間』と噂される女が居る。話しによると訓練兵時代からその気はあったらしいが、調査兵団に入団してから暫くするとその呼び名は現実味を帯び始めたという。 度重なる壁外調査により彼女の同期は次々と命を落としていく中、彼女だけは努めて冷静で亡骸を弔う場面では涙を流すことは終ぞ無かったと記憶している。 巨人に喰われる様を目の前で見たと報告していたが傷心した風でもなく普段通りの無表情。声に抑揚は無く喜怒哀楽を一切表現しないその姿はまるで人形の様だと周囲の人間は気味悪がった。 彼女に感情と言うものが存在するのだろうか。時には親しげに談笑し合う間柄の仲間の死を悲しむ感慨は。団員たちは次第に嫌悪していき冷酷人間と呼ばれるのはなるべくしてなったと言っても過言ではないだろう。


、お前の同期の遺品だが……何か持っておきたい物はあるか?」


俺は彼女たちと同じ班で班長をしていた。死なせてしまった事に悔しさはあるが涙は出ない。幾度となく繰り返される仲間の死と言うのは経験数に比例し、悲しみこそあれど塞き止められた涙腺を崩壊させるのは困難になっていく。 これは彼女より多くの場数を踏んでいるからこそであり、そう簡単に身につけられるものではないと思っている。 それなのに彼女は涙を見せる様子は無く、剰え表情を変えることもなく俺の手に乗る遺品を一瞥しただけで。交じり合う視線の先に見えた瞳は無感情に一点を見据えているだけだった。


「私には必要ありません。親御さんへ届けてあげてください」


何故、そんなに冷静に言えるのか。彼女からしてみれば最後の同期の死だというのに。冷え切った声は俺の背筋を凍らせるように響いた。もしこれが悲しみに満ちた涙目で言われればただ遠慮しているだけなんだなと思えただろう。 恐らく言葉選びも悪かったに違いない。普段から雑談やら意見交換やらしない無口な彼女はたまに発言したと思えば人の反感を買うような台詞を口にすることが多々あった。つくづく不器用だと思う。 俺は特段人の心が分かるとか、斟酌が得意というわけでは無い。なので必然的に彼女への印象は悪くなっていく一方だった。


「いい加減にしろ!」


辛くあたってしまう時もあった。訓練中や執務中など意思の疎通が出来ない煩わしさに臍を噛むなんてしょっちゅうだ。エルヴィン分隊長は何を考えているのか、彼女に肩入れしているのを薄々感じる。 それはほんの些細なものではあったから多分俺ぐらいしか気づいていないと思う。その事に苛立ちを感じなかったと言えば嘘だ。


「お前のように協調性がない奴はいつか仲間を殺す……そんな奴は俺の班から出ていけ!」


辛辣な言葉に彼女は何を思うのか。訓練中に空中で衝突事故を起こし幸いにも事なきは得たが、それでも彼女の動きは仲間を全く意識していないもので自己中心的なものだったのだ。班長として叱責するのは当然の事だろう。 しかし俺は叱咤してから何か違和感を覚えるのだが、その時はただ反省する様子のない彼女に憤っていただけだろうと思い込むにとどまる。よくあの体制から衝突してしまった仲間を助けられたな、なんて微塵も思い至らなかった。 今にして思えば彼女の実力の芽をもぎ取っていたという訳か。彼女のその驚異的な反射神経の開花は後々目の当たりにするのだが嫌悪感の方が先走っていた俺に知る由もない。


「あいつ感情とか無いよな」
「気味悪い……」
「きっと仲間じゃなくてじゃがいもか何かと認識してるぜあれは」
「やだ怖い……一緒の班になりたくないわ……」
「早く辞めねぇかな。そしたら兵団内も平和だろうに」


本部内の至る所で彼女の誹謗中傷は囁かれ続けた。影でこそこそと悪口を言う輩は後を絶たない。面と向かって言ってやれとは思うが彼女は近寄りがたく何をしでかすか分からないという恐怖もあったのだろう、こうなるのは必然だった。 たまに頭の悪い連中と殴り合いの喧嘩でもしたのか怪我をこさえて来ることもあった。だが俺はどうしても彼女からけし掛けたとも喧嘩を買ったとも思えなかった。それに罵詈雑言を浴びせたとしても生意気な言葉は返ってくるが手足が出た事はないと記憶している。 俺が先輩で班長だからというのもあるのか、しかしその考えは直ぐさま取り消す事となるのだ。彼女は先輩に対してだけではなく後輩でも同年代にでも手を出す事はないという事を。


「お前が班の輪を乱してるって何度言えば分かるんだよ!」

「なんとか言いなさいよ!」


夜中の見回り中に出くわした修羅場。班員に取り囲まれているそんな状況を見て俺はやっぱり、とどこか納得をしていた部分があった。こんな事は何度もあったのだろう、むしろ良くここまで見つからずにこれたものだとさえ思う。 他の団員には目撃された事もあるだろうが皆一様に見て見ぬふりか最悪一緒になって批難を浴びせるか。想像しただけで胸糞が悪い。多勢に無勢、壁外ならまず助からないだろう。 そんな比べる対象を間違えた思考が脳裏を過ぎったからなのか、彼女に対して初めて庇護欲を掻き立てられた。


「……こんな夜更けになんです。毎度毎度…そんな元気が有り余っているという事は訓練が足らない証拠なんじゃないですか」

「なんだと!?生意気な!!」

「私は眠いんです。くだらない無駄話なら明日にしてください」


予想通りな彼女の生意気な言葉に少し笑ってしまった。その所為で最初の一発を止めることは出来なかったが、二発目を止めることは出来て安堵する俺がいる。 怒鳴り散らせば班員は蜘蛛の子を散らすように兵舎へ逃げていき、それを見届けされるがままだった彼女の横たわる体を起こしてやれば口の端を切った様で血がにじんでいた。 途中から見ていたにも関わらず止められなくて悪かったと言えば無愛想な答えが返ってきて今一度笑う。こいつは本当におかしな奴だ。生意気な口をして恥じらいが垣間見れるなんて。


「あんまり足を引っ張らないように努めて来たんですけどね……長時間共にしてると嫌でも目についてしまうものなのでしょう」

「こんな時まで冷静に分析してくれるな……全くお前は難儀な性格してるよ」

「この歳になって長年培われてきた性格は治りませんよ。理解してもらおうなんて思っていませんし」

「……ガキって歳でも無いんだから少しは歩み寄る努力をしろと言っているんだ。そんなんだから――」


いつもの様に悪態を言い合う。そう思っていたがついと逸らされる視線。どんなに罵声を浴びせても真っ向から真摯に向けられてくる筈のそれは心許なく揺れた。 何か地雷を踏んでしまったのだろうか。いくら辛辣な言葉を言っても、人徳を欠く言葉を聞いても反応を示さなかったのに。彼女は自嘲する様に口角を僅かに上げ細い声音で言った。


「同期の様に親しい間柄になってしまえば、その分悲しみも大きいですしねぇ……」


そうか。彼女は人並みの感情を持ち合わせて居るのだと、他の団員ましてやこの世界に生きる人間と何も変わらないのだとその時初めて知った。思い知らされたといっても過言ではない。 ただ感情を表に出す事が極端に苦手なだけでその心の中には確かに存在しているのだ。人間味と意思を。話してみれば意見だって持っている。何故そんな簡単な事に気がつかなかったのか今までの自分を殴ってやりたいとさえ思った。

――しかし、ならば何故あんな冷酷な瞳をするのか。冷酷な声音を発するのか。


「お前は仲間の死も意に介さない人間だと思っていたが、どうやら勘違いしていたようだ」

「……否定は、しません……まぁ傷の舐め合いは好みませんし、自分の弱さを露見せずに済むので良いんですけど」

「お前らしいと言っていいものか……つくづく難儀な性格してんのな」


彼女は自分の弱さをひた隠すのだろう。冷酷な瞳も冷酷な声音も全てがその裏返しなのだ。どんなに悲しかろうが苦しかろうが気丈に振る舞い前を見据えて。 まるでそうしなければ戦えなくなると言うように。なんて脆く儚いものなのか。その危うい均衡の半分は弱さを糧にする『強さ』他ならない。

それからといいものの彼女に対する印象は手のひらを返すように反転し俺は態度を改めた。頭ごなしに批難するという接し方を変え悪態や軽口の中に負の感情を一切含むことはしなくなったのだ。 それは班編成が新たに組まれ、彼女が俺の手を離れてからも変わることはなかった。彼女は相変わらず誹謗中傷を浴びていたが余計な事を言うなと言わんばかりに俺を追いやるものだから少しばかり寂しく思う。 気持ち悪いと言われるかもしれないが彼女の「そんなに口うるさく言われなくとも分かっています。貴方の声は豪快で喧しいんですから嫌でも耳に残る」という言葉を聞くのが密やかな楽しみだったと言うのに。






そして数年後。地下街のゴロツキたちの入団、ウォール・マリア崩壊など目が回りそうな様々な事柄を経て、単独部隊隊長と言う大層な地位を与えられた彼女と共に何度目かの壁外に遠征している真っ只中の出来事だった。 新兵の頃とは見間違える程に頼もしくなった彼女の援護を受け願ってもない共闘する機会が訪れた。情けない事ではあるが大量の巨人相手に俺の班だけでは手に余る。そこに颯爽と現れたのが彼女で。

混沌と化した状況を前に眉を僅かに顰め、退避を促せばすぐさま舞い飛ぶその姿はもはや俺の知るものではない。彼女の成長、と言い表すよりも的確なのはまさしく『真価』が相応しいだろうか。 遠巻きで見たそれは見事なもので、やはり俺も含め周囲の人間が存在する戦域と言うのは彼女にとって枷にしかならなかったのだと思い知らされた。

指導していた過去もあり後悔が襲う。それと同時に彼女の真価を引き出した団長と兵士長に嫉妬さえした。我ながらに図々しいやつだと思うもそれ程までに俺の中での彼女という存在は大きくなっていたのだ。 どんなに戦術価値が上がろうとも、兵士長と親しげになってもその危うい均衡で保たれている心を最も理解しているのは俺の筈だ、と思い上がっていたりもする。


「班長、後ろ!!!」

「――っ!!」


そんな中、俺は不覚にも巨人の攻撃を許し深手を負う。近くにいた班員の声虚しく足も食われた挙句落下の衝撃で全身至る所の骨が折れ、出血も激しく所謂虫の息という奴だ。久しぶりの共同戦線を張れた矢先の事だった。 彼女の邪魔をしてはいけない、と自己満足も似た配慮だったと言い訳をする。それが招いた結果は思い上がっていた俺には相応の対価だったのかもしれない。


「先、輩……何、くたばろうとしてるんです……?」


彼女が駆け付けた時には声を絞り出すのがやっとのくらい息も絶え絶えで痛覚は既に失われていた。それでも俺は彼女の前だけでは、と虚勢を張る。 こんな俺を滑稽だと笑うだろうか。不器用な言葉でまた言ってくれるだろうか。


「カッコ悪いとこ、見せちまったな。俺のことは良いから早く――」


緩慢な動作で首を振る彼女の瞳は僅かではあるが揺らいでいたと思う。背後に巨人が迫る中、彼女はその場を動こうとはしなかった。 必死に足の断面を押さえる団員に目もくれずただただ突っ立っているだけの彼女は、俺を凝視するばかりで。


「お前という奴は…っ!早く行け!!最期なんだから、俺の言う事を……聞け、よ!!」


力を振り絞り叫んだ。その瞬間弾かれたように彼女は体を震わせいつもの無表情に戻ると背を向ける。それでいい。彼女は仲間の死を冷静に見据えて戦わなければならないのだから。 俺なんかに構っている暇は無いはずだ。この瞬間にも他の兵員たちは危険にさらされている。彼女が剣を振るえば救える命がどれだけあると思っているんだ。 冷酷人間とは感情を押し殺し命を守るために自ら仮面を被った姿、ここで違えるわけにはいかないだろうが。


「……そんなに口うるさく言われなくとも分かっています。貴方の声は豪快で喧しいんですから……嫌でも、耳に残る」


――あぁ、存分に残しとけ。俺が居たという証を。お前のよすがだと自惚れた俺の手前勝手な想いをその左胸に刻み付けておいてくれ。俺が最期に聞きたかったその言葉は、餞別として有難く貰っておくから。


「ありがとよ……生意気な、後輩」

「――っこちらこそ、今までありがとうございました。まぁ、ゆっくり休んでくださいよ」


そう言って彼女は巨人に向かっていく。振り返ることはない。それが無性に寂しくもあり、安堵を齎すもので――嗚呼これこそが冷酷人間の本質なのだと理解する。恐らくこれは死に際ではないと目にすることは出来ないんだろうな。 彼女自身の本質ではなく、冷酷人間の本質。これで漸く彼女の全てを知ることが出来ただろうか。答えは一生分からない、なんて冗談めいているな。

確実に巨人を討伐していく姿を霞みゆく視界に確と焼き付けた。風で舞いそれでいて自由に飛び回る、その光景にありもしない未来が垣間見えた気がした。 だからだろうか。掴もうとしても決して掴めることのない羽根。俺はそれに触れたくて必死に手を伸ばす。まるで縋るように。この役立たずな腕は動かすことなぞ出来ないというのに。

ひらひらと。荒れ狂う強風でさえも味方につける飛躍は美しくもありながらどこか無謀にも見えて。そこで初めて気がついた。彼女は気が急いでいるのではないか、と。自惚れではないが俺の瀕死な状態を見て動揺している、と思い至る。 彼女のガス残量はそんなに余裕があっただろうか。そんなに蒸したら直ぐ尽きる。彼女ほどの実力者ならいくら無駄話が過ぎて敵が迫っていたとしてもそんなに慌てる必要はないだろうに。

どうやら俺の思い上がりは見当違いだったらしい。最期の最期で見せてくれるじゃないか、可愛げと言うものを。だからって餞別を奮発しすぎじゃないか。 そう思わせるには十分すぎるほどの価値があるそれは死ぬ間際の恐怖をいとも簡単に吹っ飛ばしていくのだ。


を……頼む……不器用で、馬鹿な……奴、……」


やり取りを見守っていた仲間たちに彼女を託し俺は眠気に抗うことなく瞼を落とした。そろそろ限界だ、お言葉に甘えて休させてもらおう。まどろみの中で駆け巡る記憶を眺めては懐かしむ、最期の時。

いつだったか、彼女が初めて受け持った直属の部下が殉死したのは。教育など柄にもない事を何だかんだ言いつつそれでも真摯に取り組んでいた姿が印象深かったのを覚えている。 そしてあの日、進路変更を余儀なくされ朽ち果てた街に進入し団長から殿を任された彼女。役目を果たし帰還すると部下が殉死したと報告していた。共に居たにも関わらず死なせてしまったと、いつもの様に底冷えする声音で顔色一つ変えることなく。 無意識下で冷酷さを取り繕うとしていたのだろう無表情に覆われた仮面が終ぞ剥がれる事は無かったが、それでも少しくぼんだ目のあたり漂う陰気な影の先には確かに彼女の本心がある事を俺は知っている。


――なぁ。お前は今、その瞳に感情を浮かべているか。あの時と同じくお前の本心を写す冷酷でいて美しいまでのその瞳に。


そうならば、この上なく嬉しい。不謹慎だと咎められたとしても喜びに満ちる心を俺は褒めてやりたい。死ぬ間際ぐらい自由にさせてもらいたいものだ。 絶望するでもなくむしろ誇らしい最期。焦りの中で垣間見た頼もしい背中を瞼の裏に映し出しながら俺は口元が緩むのを感じた。笑って逝けた事はこの上ない幸福感を生んだという事は言わずもがな。そして俺の意識はそこで途切れ――




 ♂♀




柔らかな風が吹くその場所には居た。両手に小ぶりではあるが花束を抱えている。彼女らしいその真っ青な花々は風に靡き日差しを受け可憐に咲き誇っていた。 眼前には多くの文字が刻まれた石。慰霊碑と言われるそれは先日の壁外遠征で殉死した団員の名前が掘られている。彼女はそれを前にして何を思うのか。その無表情からは窺い知る事は出来ない。


「お前に墓参りの感慨があるとはな」

「いえ、口うるさい先輩が居ましてね……もうあの喧しい豪快な声を聞くことが無いと思うと清々したって、笑ってやろうと思って」

「……そんな目には見えねぇがな」


静かに膝をつき手に持つ花束を置く。先客が居たようで色彩が美しいそれにシンプルな花束は埋もれ、謙虚に溶け込んでいった。それが彼女自身を表している様で儚さを生んだ。 次第には誰に問われるでもなく言葉を紡いでいき、その背を見据えるリヴァイは瞼を閉じ耳を澄ませた。彼女の声はか細く聞き逃してしまう気がして。


「何かにつけて度々突っかかってくる様な恐ろしい先輩でした。結構長い付き合いでしたね……私に構う暇があるなら装備の手入れでもしてろって悪態ついたり、軽口とかも喧嘩腰で」


気心知れた仲間内で話す時と酷似した饒舌な様子に違和感を覚えた。そしてその違和感の正体を彼は知っている。


「でも、何度も兵員に呼び出しくらう中で初めて助けてくださった方でもあるんです。他の人は見て見ぬ振りやら一緒になって喚き散らしたりしていたのに、唯一割って入ってきた」


彼に話す言葉の内に孕む感情は『彼』に向けたものなのだろうと。『彼』も彼女にとって気心知れた仲であったのだと。 もう姿かたちも無い『彼』の面影を探しては縋る様に手を伸ばす心、その中に後悔があるのだと言外に告げた心もとない瞳が物語る違和感。 たまに見せるそれの正体を知っている。知っているからこそ手を伸ばさずにはいられなかった。くしゃりと撫ぜる手は彼女を諌めるでもなく、慰めるわけでもなく緩やかに触れていく。


「そんな経緯もあって……私の数少ない気が置けない人だったんですけどねぇ。また、失ってしまいました。本当に慕っていたのに、敬愛する先輩だったのに……守りたかった――」


彼女は何度振り返ろうとしたのだろうか。何度兵士たちの断末魔の悲鳴を夢に見ては苦しみ目を開けたのだろうか。何度その度に許しを請うたのだろうか。 彼女は決して振り返らない。それでも全てが払拭された訳ではないという事を知っている。魘され心を砕かれまいと抗う姿を目にしたのは数え切れないほどあった。 それでもこの小さな背中が揺らぐことはない。前を向き突き進む限り存在し続ける背、そこには冷酷さと堅実な意志が在った。死にゆく者たちに安息を約束する絶対的な信頼感。


「最期は微笑んでいたと聞いた。それが意味すること……決して後悔を促すものではない」

「そう、ですね……そうだったら――嬉しい」

「……彼も、同じことを思っていただろうよ」


この慰霊碑の前に来ることはないだろう。は立ち上がり振り払うように背を向けると迷わず歩き出した。振り返ること無く、何かに押され地面を踏みしめるように。 もう、心残りなぞ無いと言わんばかりに。


『許されるならば貴方に――お別れを言わせてください』


もう二度と後悔などしないから、振り返ろうとしないから。だからどうか、最期のお別れを彼に。




――背後で誰かが喧しくも豪快に笑った気がした。






END.









ATOGAKI

度々出てきた先輩と同一人物だったり、違う人だったりという裏設定。