She never looks back
緑と赤のコントラスト。見慣れたそれは目の前の光景を網膜が像を結んでは記憶の中から類似するものを引き出していく。
散らばるいくつもの断片、立ち込める蒸気、鼻を突く異臭、その中でひとり立ち尽くし目を眇めた。
足元には赤に塗れる羽根――否、そう比喩されていたそれ。見慣れた筈の姿は記憶の中のものよりも随分と差異があるように見える。
瞬きをひとつ。もはや風に揺れる緑の様に靡くこともなければ舞い飛ぶ事もできないそれは変わらずただ静かに横たわっていて。
無表情に嵌め込まれた虚空を見つめるその瞳に感情は無い。まるでガラス玉のように美しく無機質に光を映射するだけの眼球。
胸中を斟酌する事など造作もないと自惚れにも似た優越感を抱いていたそれからは今は何も――何も分からない。
「目の届くところで死ねと……言っただろうが」
意思もなく物言わぬ地に落ちた羽根と化した彼女からは、言い訳も軽口も冗談でさえ聞くことは叶わないのだろう。
これが夢だと分かっていても、夢のような現実かもしれなくとも、それでも己は手を伸ばさずにいられない。
反古にされた事への憤りに身を任せ喚き散らしたい衝動を抑えながら冷静を取り繕う振りをして――ただ愛欲のままに彼女を求めその頬に触れた。
さながら涙のように濡れそぼる赤を拭っては認めたくないのだと足掻くように指を這わせ、自ら閉じることのない瞼でその無機質な胸糞の悪い瞳を遮り、早くいつもの明瞭たる感情を写せと言外に訴える。
まるで不毛だ、甚だ馬鹿げた悪足掻きだ。覚悟をしていた筈にも関わらず、しかし己は一体何をしているのか。認めたくないなぞと受け止めることもできず愚直に否定を繰り返し何故言いつけを守らなかったのだと窘め。
縋る様にその身を掻き抱いた。たとえこれが現実で、偽りなく失われた”生”を認めてしまう事になるとしても。
「なぁ、――」
その名を紡ぐ。
―きみは見届けさせてくれるだろうか―
――それは、いつもと変わらないと思っていた矢先の事だった。
「兵長……?」
いつもと変わらない日常。いつもと変わらない膨大な仕事量。いつもと変わらない、兵長の様子。そう思っていた。
「……なんだ」
「いえ……ただ、いつもよりお疲れみたいだったので」
「……俺は平気だ。心配させてすまない」
そう言いって平然と座る姿は隠しきれない疲労感を醸し出していた。おかしい。そう思ってしまうのも無理はないだろう。
私が調査兵団に入ってから彼のこんな様子は初めてで。一体どうしたと言うのか。どんなに忙しい時期でもどんなに無理難題を押し付けられようともいつもなら疲労感などおくびにも出さないというのに。
心なしか隈も酷い。立体起動の訓練でも指示を出すばかりであまり自分は飛ばない。眉間の皺も3割増。全てが『いつも以上』とついてしまう程、その変化は明らかだった。
無論これは兵長を近くで見ている人間だけにしか分からない事だろう。何かと彼を視界に入れてしまう私たちだからこそ。
幹部のみなさんも気づいているのだろうか。ハンジ分隊長はいつも通り兵長をからかっては彼の疲労を引き出している様で気づいていると言うよりその原因を知っているのでは。
一瞬でも聞いてみようかと考えたけれども、それは何か違う気がした。恐らくハンジ分隊長に限らず幹部のみなさんはその理由を答えてはくださらないのだろうと思うから。
「今朝からあんな調子よ……流石に見てられないわ……」
「どうしたって言うんだろうな。仕事スピードは変わらねぇがいつも以上に顔色が悪い」
「こんな時分隊長が居てくだされば……」
兵長に関して心強い人間である分隊長は1週間前から不在だった。こんな時に限って、とは思うものの詳しくは存じないけれど単独任務とやらなのだから致し方ない事で。
彼女は兵長と大の仲良しだ。と言っても分かりづらくコミュニケーションの取り方なんて常人のそれではない。し、下ネタやら冗談の掛け合いが多く他に嫌味の言い合いや上官と下官らしいお説教なども見たことがある。
兵団内でのふたりは上下関係を重んじる態度ではあるけれど交わされる言葉はそんなもの微塵も感じられないのだから最初こそ混乱したものだ。次第にこれがふたりなりの気の許し方なのだと判明したわけだけど。
お互いどんなに失礼でどんなに酷い事を言おうが決別する事はなく、たまにどちらかが本気で憤る事はあるけれどいつの間にかまた元の鞘に収まっているくらいで。私たちはよほどの事がない限り心配する事はないだろう。
「俺はあの人を認めてねぇからな。兵長の事についてだってアテにならないぜ」
「あんたよりは断然兵長の事を理解しているわよ。それに認めないも何も命の恩人に対してそれは無いんじゃない?」
「俺は額に切り目を入れられそうになったんだが!?」
「それはあんたが女性の部屋をノックもせずに開けるからでしょ」
「……呻き声が聞こえりゃ心配にもなるだろうが」
「今時ツンデレなんて流行らないわよ……?」
「チッ……あの人は分からなすぎだ……何よりあの目がおっかねぇ」
「……よく観察してみればいいじゃない。恐ろしい、という先入観抜きでね」
「は?何言ってんだお前」
「いつか分かる時がくるわよ」
そして何よりも大の仲良しだと実感する場面がある。一歩壁外に出れば目に見えそうなほどの信頼が根強く存在するそれだ。
私は思う。あのふたりは例えどちらかが命を落としたとしても動揺なんて見せないのだろう、と。覚悟は出来ているのだと。
だいの仲良しだからこそ失った時の悲しみは大きい筈だ。しかしあのふたりはそれを超越している。それがあのふたりらしいと言えばらしい、そう思ってしまう程には見てきたつもりで。
何故そのような関係になったのか、いつからそうなったのかは知りえないも現在進行形で見えているそれが全てなのだから無粋なマネはしないと決めている。
何だかんだいいつつ気になってしまうのは多めに見て欲しい。これは乙女の性なのだから。
「(もう少しだけ、分隊長の見分け方を独り占めしたい気分だけど……そうも言ってられないわよね。きっと兵長もそれを望んでる筈だもの)」
午後の日差しが窓から降り注ぐ時間帯。気を抜けば誘われるがままに目を瞑ってしまいそうな、そんな穏やかな時間の中。
私はつい今しがたオルオたちと話していた話題の中心人物である兵長の執務室へと向かっていた。オルオが作成した書類の不備を校正し提出する為だ。
今朝見た兵長の様子はどうなっているのだろうかと心配はするものの、彼は執務室に居ないと聞き及んでいる。何やら団長に呼ばれて其方に居るらしい。
もしかしたらここ数日の様子の件かもしれない。団長によって少しでも改善されれば良いのだけれども。
「失礼します」
兵長が執務室に居ない時は勝手に出入りしていいと許可が出されている。わざわざ探し回るより置いといて貰った方がすれ違いになった時に二度手間を回避できるとの事で。
急を要するものは探し回らなければならないけれど無論それは別だ。まぁ、兵長が執務室以外にいる場所と言えば私たちと訓練しているか分隊長の執務室で一服しているかなのでそう苦労しないのだけど。
一応の礼儀としてノックをし扉を開ける。当然の事ながら見渡す限り兵長の姿は無く、私は書類を執務机に置き踵を返した。のだが。
「――!?」
ソファの背もたれから覗くおみ足。先入観ゆえに大変驚いた。どうやら兵長は団長の元へ行かずソファでお昼寝をしていたらしい、仰向けに寝転がるそこからは安らかとも言えない寝息が聞こえてきた。
額に乗る片腕の下に見えるは普段よりも深く刻まれた眉間の皺、お腹に乗るもう片腕の先には固く握られた手。魘されている訳ではなくただ単に苦しそうというのが正しいだろう。
せめて寝ている時だけでも安堵を感じて欲しいものだ。私は棚からひざ掛けを取り出しお腹だけでもとそこを覆うように掛けた。
「もしかして……寝不足、だったのかしら?」
兵長が勤務時間中に寝るなどそれこそ見たことがない。やはり彼はいつもと違うのだ。一体全体何が彼をそうさせているのか皆目見当もつかなかった。
と、その時。ひざ掛けを掛けてそのまま横で思考を巡らしていた私の腕が徐ろに掴まれた。その場には私と兵長しか居ないのだから犯人は彼しか居ない訳で。
再び驚き目を見開いたけれど、何よりも驚いた要因となったものは。
「――、…」
微かに紡がれた言葉だった。
♂♀
今回は珍しく十日という長期に渡る単独任務であった。時間を掛けるものは多々あるも、それは通常仕事の合間に通う形が大半で十日も兵団本部から離れる事は少ないと言える。
いつもなら期間を縮めるところだが決して手こずった訳ではなく、エルヴィンの想定通りの長さに収めることができたのだからどうであれ良しとしようではないか。この疲れを除いては。
「・ただいま帰還しました」
「ご苦労だったね。報告ついでに紅茶の一杯でもどうかな」
「そうは言いますけど淹れるのは私じゃないですか」
「いやなに、君の淹れる紅茶は絶品だからね。たまには味わいたいのさ」
「煽てても絆されませんよ」
「困ったな、本心なのだがね」
渋々ながらも紅茶を淹れソファに座るとエルヴィンもそれに続く。机に広げた報告書を挟み向かい合わせな状況はさして珍しくもないものだ。
彼も小休憩を挟みたかったに違いない。時折こうして人目を盗み一服に興じるのは珍しいけれど、団長という立場ゆえその多忙の合間に羽を伸ばすくらい目を瞑るべきだろう。
傍からは至って普通に話し合いをしているとしか見えない様に配慮している所がやはり抜け目無い。いつもより肩の力を抜き座り方にも余裕が垣間見れるも、事実話し合いに変わりはないのだから小休憩といってもほんの些細なものに変わりはないのだが。
の場合なにをしてもサボっているようにしか見えないこの差は何故なのだろうか考えあぐねるもやめておいた方が利口だと思い至る。
「期待以上の情報量だ。緻密な動向記録、果ては目線を合わせた人物の特徴まで記すとは恐れ入るよ」
「流石に途中で飽きそうになりましたけどね。地道な張り込みは良いんですけどお陰で寝不足ですよ……寝ていいですか」
「このソファで寝るよりも私のベットで寝る方が心地良いとは思わないかい?」
「結構です。と言うかいつ誰がここで寝ると言いました?久しぶりの我が聖域で寝るに決まってるじゃないですか」
「ははは。どうやら私はリヴァイの様に冗談が得意ではないらしい。報告書に目を通し終えたらそのまま休暇を与えよう」
しかし、と続いた言葉はを落胆させるには十分の威力を持っていたという。ともあれ書類の確認は滞りなく終わりカップを片付ける為に席を立つにエルヴィンは人の悪い笑みを浮かべた。
その瞬間彼女に悪寒が走る。何か良からぬ事を考えているな、と振り返れば先ほどと寸分狂わぬ至って普通の表情を貼り付けたエルヴィンが此方を見据えているだけで。
気のせいだったのかと背を向けるもそんな筈はなく。
「エルヴィン団長……言いたいことがあるなら早急に仰ってください。勿体ぶるのであれば休暇期間を伸ばしてもらいますからね」
「壁外調査が近いんだ、通告通り一日半以上の休暇は受理しかねる」
「……まぁ良いですけど。ではなくて、一体何を勿体ぶってるんです?」
つい今しがた落胆させられた通告に釘を刺され再び肩を落とすも本題はそこではない。危うく忘れそうになるも彼の思惑に踊らされる訳にはいかないのである。
据わる目で視線を投げかければエルヴィンは降参だと言わんばかりに肩をすくめ漸く口を開いた。面白がっているのは言わずもがな。
「長期任務で疲れている君に言うべきか考えあぐねていただけさ。いやなに、3日ほど前からリヴァイが寝不足で彼の部下が心配しているそうだ」
「あの人が……?珍しい事もあったものですね。部下に気づかれる程とは」
「気が向いたら様子を見て来てくれないかい?今から半休を与える旨を伝えるついでで良い」
「……それって強制じゃないですか」
「どう受け取るかは君次第、と言ったところかな」
「…………」
が出て行った後、エルヴィンが再び人の悪い笑みを浮かべていたなぞ知る由もない。
十日で劇的な変化が訪れるはずもない本部内を進み、は眠気の所為で乾く目を瞬かせながら嘆息をひとつ。
体は倦怠感で重く、かと言ってそれを他の兵士たちに気取られぬよう足取りだけはと己に鞭を打ち動かした。
こんな時にハンジにでも出くわしてしまえば更に疲労が蓄積されるに違いない。なるべく迅速かつ息を潜め歩こう。隠れるところもなければ逃げ場もない廊下では無意味なことこの上ないのだが。
向かう先はリヴァイの執務室だ。エルヴィンから言伝を預かっているため、とはいうものの他に目的があるのは言うに及ばず。
不本意、とまでは言わない。心配もしていない。ただあのリヴァイがらしからぬ状態な事に興味があった。なんて建前は誰にも納得してもらえないのだろう。
一体全体どうしたというのか。単独任務前の晩に床を共にした時は寝不足なぞ皆無だったと記憶している。彼は普段から眠りの浅い人間なのだがそれは体質というか癖と言うかまぁそんなところなのだろう。
もしかしたら常に寝不足状態なのだろうか。隈があるのはその所為と。兎も角生活に支障をきたしていないのだからその件は置いておこう。
しかし今回は何やら相当参っていると言うではないか。部下に心配されるなぞ本当にらしくない。他の分隊長たちも気づいているのだろう、ハンジは面白がってイジっている気がするもそれは心配の裏返しだと思いたい。
はすれ違う後輩団員の「もう帰ってきたのかよ……」という苦言を聞き流しながらそう短くはない距離に位置する目的地へと到着した。
以前つい癖でノックもせず扉を開けたとき吃驚させられたものだ。同じ轍は踏むまい。そう意気込み腕を持ち上げた、その瞬間。
「分隊長……!?お、お久しぶりです!いつお戻りに!?」
目の前の扉が開かれペトラが姿を現した。彼女は目を見開き次いで笑顔を浮かべると興奮した様子で詰め寄ってくる。
の腕はそのまま不自然な位置で止まり行き場を無くしたが下ろそうとした所を両手で掴まれその場にとどまることとなった。
「……半刻ほど前です。今しがたエルヴィン団長に報告し終わったところで――」
「取り敢えず入ってください!兵長が!」
そんなに急いでどうしたというのか。ペトラはの返答を遮りながら掴んだ腕をそのままに執務室へ引き入れた。
「……一体、何が?」
入ってみても見渡す限り何の変哲もない室内に困惑する他ない。思わず疑問を投げかけるもペトラは更に奥へと腕を引いていくものではされるがまま状態である。
そしてソファの裏で歩みを止めると背もたれを覗き込みながら口を開いた。
「兵長が――寝ていらっしゃいます」
「……へ?」
「あ、あら……?さっきまでは起きていらしたのに……」
「……?」
流石のも――と言うよりふたりとも首をかしげるという現状。訳が分からない。状況が飲み込めないのはどちらも同じだろう。
とりあえず、ともソファの背もたれを覗き込めばうつ伏せに横たわるリヴァイ。投げ出された腕が床に落ち足は不自然にも斜めに屈折している。
痛くないのか、とか苦しくないのかと疑問も然ることながら寝ているというよりぶっ倒れていると表現したほうが適切かもしれない光景に僅かながらも目を見開いた。
「これは――ハンジが見たら大喜びしそうですね」
「……分隊長?」
背もたれに両腕を乗せ無表情をそのままに見下ろす様は一見すれば冷めていると受け取れる。ペトラはそんなを見遣りながら数日前の出来事を思い起こした。
――は3日前からのリヴァイを知らない。いつも以上に隈が酷く人知れずしきりに眉間を揉みため息の数も多かった。恐らく3日前とはいうものの実際にはもっと以前から寝れていないのだろう。
兵士は数日間寝なくとも問題なく動けるよう訓練されている。彼は過去ゆえか他の兵士と同じく数日間寝なくともなんら問題はない。しかし人間には限界と言うものがある筈で。
流石に壁外のように戦闘続きの場では疲労は蓄積され休養を取らねば命取りになるのだが、今回は壁外調査もなければ訓練以外で体を動かすこともない執務仕事が中心だった。
それなのにリヴァイともあろう人間がここまで寝不足に苛まれ疲労が隠しきれなくなるまでになってしまったのは何故なのか。いくら平静を装っていても分かる者にはわかるものだ。
「3日前にもこうして横になっていた事があったのですが……寝不足のようで……」
「そうなんですか。珍しい事もあったものですねぇ。明日は豪雪でしょうか」
はそんな彼を見ていないからこそ平然としてられるのだろう。軽口を叩き素知らぬ顔ができるのだと。ペトラはそれが少し、腹立たしかった。
ことリヴァイに関して心強い人間だと思っていたのに裏切られた気分だ。まさか彼とだいの仲良しなが気づかないとでもいうのか。
それとも分かっていてこのような態度をとっているのであれば、彼女の本質は冷酷人間などではないにしてもあんまりではないか。そう思う。それに彼はを――
「――っ」
ふと視線を戻した先にそれはあった。眠たそうに目を閉じ次いで目蓋が開かれたその内に垣間見える瞳の中の感情。揺らぐそれは決して眠気で集中力が削がれている所為ではあるまい。
まるで疲れ果て羽を休める鳥を労わるように。再び飛び立つ日に思い馳せ行く末を憂慮するかのように細められた瞳の奥は、優しさに満ち満ちていて。やはりがリヴァイを知らない筈がないのだと確信に至る。だが。
「とりあえず楽な姿勢にしてあげましょう。ペトラさんは下がっていてください。危ないですから」
幻でも見ていたのだろうか。瞬く間に感情が消えた瞳を向けられペトラは肩が跳ねるも反射的に言われるがままに足を引く。
危ないとは如何に。身長の割に重量のある体を動かすのであれば助力を乞うべきだ。何故ならは反射神経を生かす為に柔軟性を特化した体に筋肉をつけすぎないよう気を配っているらしい。
だからと一概には言えないまでもリヴァイより低身長で力は他の兵士よりも些か劣るのだから尚の事ひとりでやるには酷というもの。
そんな事を考えていたらリヴァイの足に手をかけるの顔に突然蹴りが繰り出された。一体何事だ、驚きに目を見開いたペトラの視界には次いで腕を振るうリヴァイの姿が。
「危ない!」
咄嗟に叫ぶもは意に介した様子もなく繰り出される攻撃を難なくいなしながら着実にリヴァイの体勢を変えていく。
格闘技でもしているのだろうか。そう思わせるには十分な程ふたりの遣り取りは本来の目的を霞ませた。
「この人、寝てる時にちょっかい出すとすぐっ――寝技かけようとしてきますからね」
全く困ったものです。攻撃を躱し四肢を移動させるという反撃をしながら飄々と宣う。
対人格闘が不得意な人間がここまで軽やかに対応できるだろうか。反射神経が優れているどうのこうのよりもどこか手馴れている気がするとペトラは思う。
「(完全に寝ている時は起こすまで身じろぎひとつしない癖に……こやつ……)」
は本当にこの人疲れて寝ているのかと訝しむもいつもより甘い攻撃に気づかない訳もなく。横面に迫る腕を掴み冷ややかな瞳でリヴァイを見下ろし警告を。
「疲れてる時ぐらい素直に大人しく寝ていれば良いものを……その(自称)ジャックナイフ引っこ抜きますよ」
「それはやめろ」
「やはり狸寝入りか」
リヴァイの目蓋がパチリと開かれた。呆れると絶句するペトラを余所に起き上がると何事も無かったかのように紅茶を啜り始める始末。
訳が分からない。ふたりは既視感を覚える思いでいっぱいである。だがいち早く気を取り直したはその瞳を剣呑に染めリヴァイを窘めるように睨みつけた。
「とりあえず謝罪を要求する」
「ペトラ、心配させてすまなかった」
「い、いえ……私は別に……」
カップを置き振り返る彼の申し訳なさそうに謝罪するその顔にはやはり3日前からの疲労は健在で。紅茶を淹れ直し始めたを横目にペトラは心配そうに顔を歪める。
少々お戯れが過ぎるも本当に伏してしまっていたのではないのか。が来る直前では一服をとソファに座りやはり辛いのか顔を覆っていたのだから。
しかし何故だろう。が来てから雰囲気が変わった気がする。具体的な事は分からないがこの短時間で気づける程の変化が見て取れた。もしやに弱いところを見せたくないからなのか。それとも。
「聞きましたよ。奇遇ですね、私も寝不足なのですよ。エルヴィン団長から半休だと仰せつかって来ましたから貴方もそれ飲んだらお風呂入って寝てください」
「余計なマネを……俺は寝不足だから昼寝をしていたわけじゃねぇ、ただ午後の陽気にあてられただけだ」
淹れ直した紅茶をリヴァイの前に置いたは先ほどエルヴィンから聞いた彼の状態を間近に見て何を思うのか。
彼は頑なに否定してはいるが隠し通す以前の問題だ、に通用するわけがない。自然であり不自然なふたりのやり取りにペトラは混乱せざるを得まい。
「普段私にサボるななんだとうるさい癖に……そういう事なのでペトラさん、兵長は明日になれば元通りになってると思いますので今日は放っておいて構いません。行きましょう」
唐突に何を言うかと思えばは何事も無かったかのように淹れたての紅茶を啜るリヴァイを振り返る事なくそのまま執務室を後にする。慌てて後を追いペトラは閉まる扉からソファに座る後ろ姿を垣間見た。
「良かったんですか……?」
「構うことはありません。彼の仕事も放っておいて大丈夫です」
「いえ、そうではなくて――」
廊下を進みながら一歩先を行くの顔を伺うことはきでない。しかしリヴァイよりも、ペトラよりも背の低いその姿からはどこか張り詰めた雰囲気を醸し出ていて。
そういえばも寝不足だと言っていた。それを感じさせない足取りは平然と前に向かって進んでいく。階段を降りふたりの分かれ道に着くと漸く振り向いたは目を細め口を開くのだが。
「私も十日ぶりにゆっくり休める事ですし、他の皆さんに仕事は持ってくるなと伝えて頂けると助かります。特にハンジには絶対に近づくなと釘を刺しておいてくださいね」
では、と挨拶もそこそこに己の執務室へ向かって行く後ろ姿にペトラは先ほど垣間見たリヴァイの後ろ姿を重ね見ては思い至るのだ。
恐らくこのふたりは部下に弱みをみせまいと意固地になっているのだろう、と。隠しきれてはいなかったがリヴァイは頑なに平静を装っていて、は。
「……化粧しても隠しきれていないですよ、分隊長」
いつもなら任務から帰ってくる日は化粧していない癖に。踵を返す瞬間に見えたその顔には疲労を色濃く浮かべていた癖に。
一時はどうなることかと不安になったものだ。リヴァイはあんな調子で、漸く心強いが帰ってきたと思ったらいつも通りのやり取り。
それは彼らの意地なのだろう。兵士長と冷酷人間という立場を一番理解しているのは彼ら自身なのだ。そしてそれを尊重し合っている。
リヴァイはに弱みを見せまいとしているわけではなくペトラが居る手前、自然と普段通り振舞っただけだ。だけどそれだけはない事は火を見るより明らかで。
ふたりとも詰めが甘い。不調の件もそうだが、お互いを間近に認識した時に無意識ながらも変化する雰囲気が、何よりも。
「明日晴れたら、お昼寝でもしちゃおうかしら」
窓から見える午後の陽気とは程遠い曇り空を見上げ、ペトラは微笑みを零した。
♂♀
些か埃の積もる執務室を突っ切り奥の扉を開ければ久しぶりの我が聖域。此方も同じく埃っぽい。は心なしか眉間に皺を寄せると窓を開け放ち立てかけてあったはたきを手に取った。
本格的な掃除は明日でもいいのだが、如何せん使命感が彼女を突き動かす。棚の上から始まり机、ベッドマット、そして最後に床を箒で履き雑巾をかける。
クローゼットからシーツと枕を取り出せば完了だ。これらは埃で汚れないように仕舞っていた。任務帰りに余計な仕事を増やしたくないからである。
綺麗になった寝室は聖域と表現するだけはある。普段はもう少し散らかっているのだが。
満足したは次いでお風呂に入ろうと洗面所に向かい扉を閉めた。ここだけは施錠するのを忘れずに。
いつも通りの早風呂で寝室に戻れば予想通り部屋の主よりも先にベッドに横たわる人物。掃除用具の場所がずれていないところをみると及第点を頂けたらしい。
まったく人の部屋なのに面倒くさい男だ、そう悪態つきながら身じろぎひとつしない体を横目にベッドに腰掛けた。
「部下に気づかれてちゃ世話ない」
壁外でだってそんな疲れた顔しない癖に。一体何が彼を寝不足にするまで苦しめるのか、興味はあるけれど素直に答えてくれる訳もなく。
どんなにだいすきな仲良しと宣おうが彼は口にしない。態度では示す癖に肝心な部分はその胸に仕舞いこむ。反対に人を気遣ったり慰めるような言葉は流れるように紡ぐのにも関わらずなんと殊勝な事か。
己も人の事をとやかく言える立場ではないが、彼はそれに輪をかけたような人間であると勝手ながら認識している。プライドがそうさせているのか、それとも歳を食っている分何かが歯止めするのか。
「まぁ、女は化粧である程度隠せるから卑怯だよねぇ……いつから寝れてないの」
背中越しに見遣れば枕に埋めていた顔を少し動かすリヴァイ。そこから覗く目下にはいつも以上に酷い隈。さらりと流れる前髪が瞳を横切り枕に落ちた。
「……9日前、あたりからだ」
「奇遇だね、私も9日前から張り込み続きで寝てない」
「ご苦労だったな」
「貴方は至って普通の仕事内容だったはず」
「…………」
「なに、寂しかったの」
「……バカ言え、そんなんじゃねぇよ」
「そう」
ついと逸らされた視線の先で何を思うのか、には到底知りえない事だ。窓から吹き込む風に煽られ目を瞑られてしまえば尚の事斟酌するのは難しい。
いつもいつも分かりづらいのだ、このリヴァイという男は。いくらが人の心情を汲み取る事が出来る人間だとしてもリヴァイが相手となるとそうも行かぬ。
こと彼自身の弱い部分ならば尚の事。期待するペトラには申し訳ないがはリヴァイの全てを理解出来ているとは冗談でも口にできなかった。
(私ばかり理解されている事について心苦しさが無いわけじゃない。いつも救われるのは私でいて、けれど私がこの人を理解できる部分はまるで少ない)
弱みは見せてくれていると自負している。気を許しているのも分かる。しかしだからと言って己は彼の何が理解できているというのか。一番肝心なところが抜けていると思う。
「――夢を、見た」
徐ろに紡がれた言葉には馳せていた意識をリヴァイに集中させた。
「それはどのようなものなの」
問いかけるも返答には期待しない方がいいらしい。何故なら彼は露骨にも再び枕に顔を埋めてしまったからだ。分かってはいたものの実際に目の当たりにするとなんだか気が済まない。今まさに考えていた事なのだから。
「……そろそろ寝たいからもっと端に寄って」
まぁいい、まるで不毛だ。諦めにも似た嘆息をひとつするとは限界が近いこともあり寝る準備に勤しむ。
何故腰掛けるだけに留まっていたのかというとど真ん中を占領されているからである。
動こうとしないリヴァイに呆れながらもベットに膝をつき退かそうと試みた。しかしそう簡単に行く筈もなくは途方に暮れる。のだが。
「まさか寝たわけじゃ――ぐぇっ」
突然胸ぐらを引かれそのままベッドに組み伏せられた。流石干物女代表と誇るだけはある、うめき声に色気はひと欠片も存在しない。
それは兎も角この状況はおかしい。何故に己は危害を加えられているのだろうか。馬乗りされ見下ろしてくるリヴァイを見返しながら冷静な頭で考え。
この人は胸ぐらを掴むのが好きなのだろうか、と解放する気配が微塵もない腕を一瞥しては痛む体を気にしながら、いつの間にか目と鼻の先に迫っていた顔が額に触れるのを確認する。
訂正しよう、触れるなぞとそんな生易しいものではなかった。
「アイタッ……組み伏せられたと思ったら頭突き……私は何か悪いことをしたのだろうか」
「あぁ、お前が悪い」
「一体何をしたと言うの。まだ帰って来て1時間しか経ってないのに」
「もっと前だ」
「もしかしなくとも……寝不足になった原因とか言い出すんじゃ――」
その後は声に出せなかった。肺が圧迫されるまでに抱きしめられたからだ。組み伏せられた時と同じく目一杯力をこめられては身動ぎばかりか息もできまい。
ベッドと背中の間にねじ込まれた腕のお陰で体は反るし何より重い。痛みはこの際置いておくにしてもこの状況は些か辛いものがあるというもの。下手したら骨が折れる。ミシリと軋む音は悲鳴そのもので。
次いで不意に緩まる力に息を吐くと首元に顔を埋めているリヴァイの後頭部を見遣っては手を伸ばした。頬にあたる刈り上げ部分が痛い。それはともかく彼にしては素直すぎるほどに真っ直ぐな指通りの良い髪の毛が憎たらしい。
本体もこのくらい素直だったらいいのに。そしたらもっともっと理解できるのに、彼は教えてくれないのだから示された態度だけで判断する他ないのだろう。
「――」
だが、何がそんなに苦しいのかだとか、何をそんなに思い詰めているのかだとか全ての言葉を飲み込むは知ることとなるのだ。
まるで確かめるように呼ばれた名。思い悩んでいた事も払拭させるには十分な言葉に――あぁ、これが彼なりの、と。
「どこで死んでやがる」
リヴァイなりの精一杯の表現方法なのだと。機微をうがつことは無いにしても甚だ実直なまでの言葉。何が、と明確には言わない。ただそれを察することが出来る程度の発言は普段から慣れ親しんだもので。
今までこうして口に出していたではないか。ただ、それが彼なりのものだと理解できていなかっただけで。
「……勝手に殺さないで」
少しばかり笑声を混ぜれば瞬時に首元から顔を上げ凄まれた。全く可愛げのない男だ。恐らくいつもいつも彼が肝心な所で言葉足らずになる時は、ただ恥ずかしかっただけなのだろう。
ことに関しての部分。己自身の弱みではなく、に関する弱み。それが屈折した言葉にしか言い表せないのだと。口ではなく極力態度で伝えようとしていたと。今回は何だ、が死んだ夢を見たから眠れなかったというわけか。
「そりゃあ、分からない筈だよまったく」
鈍感。ただその一言に尽きる。そんなに気づかれないようにとするならば持って来いな最善手か。
それを分かった所で何をどうこうならないのはやはり鈍感ゆえなのか、はただ「何もそんなに恥ずかしがる事もないのに」と思ったという。
「まぁなんだ、俺にも譲れないもんが……言わせんじゃねぇよ」
「なんだか良くわからないけれど早く退いて。苦しい」
「…………」
無情にも立ち退きを要請されてしまったリヴァイは脱力したように転がり壁に背をつけた。微かに笑声をあげるを眺めては手を伸ばし今一度その名を呼ぶ。
緩やかに向けられる顔、からかいを含めた瞳。そして己の名を紡ぐ唇。その全てが生を象徴している様で。
「(この差異なら……悪くない)」
夢で見た悲惨な差異よりも、また新たに記憶に刻まれるの姿を見ては凍て緩む己に単純なものだと嘲笑をひとつ。
こうしていつも通り傍らで寝転がるが何より生を実感させてくれる存在である事を再確認するのだ。そして、リヴァイは起き上がると同時にに正座を強いた。
「今ここで約束しろ。あの時は明確な返答を聞いてねぇからな」
「いきなり何を……そう言えば尽力するとしか言ってない気がする」
胡座をしくリヴァイと何故か正座させれらる。これでは説教されてるみたいではないかとは思うもリヴァイは真剣そのものである。
組まれた腕辺りに視線を漂わせていたは顎を掴まれ強制的に真っ向からリヴァイの瞳を受け止めざるを得ない状況へ。そして彼は確と目を合わせ間髪いれず言い放つのであった。
「お前は必ず俺の目の前で死ね。分かったか」
「……はい。約束します。私は必ず貴方の目の前で死ぬと」
「違えることは」
「許されません」
「絶対に」
「絶対です」
「……悪くない」
「ちょっと面白いとか思ってるでしょ」
そんな事はないと嘯くリヴァイを据わる目で睨みつけては呆れたように微笑み、は手から逃れるように顔を背けそのままいそいそと寝に入ろうと布団を被った。
流石に限界だ。9日も寝てないのだからその分1日半の休暇を睡眠に費やしたい。そう心に決めては目を瞑る。
「(まったく人騒がせな人だ。部下にまで心配掛けて更には私を悩ませるなんて)」
でも、と。未だに座ったままの顔があった場所を凝視して固まるリヴァイに布団から覗かせた瞳を向け。
「今なら思う存分寝技の練習相手になってあげてもいい」
痛くしないなら。その言葉が声になる事は無かったとは皆まで言わず。
陽も沈みかける夕暮れ時。外界で訓練に励む兵士たちの喧騒から隔離されたかのような穏やかに時を刻む寝室でふたりは眠りにつく。
ただの口約束、されど確かに交わされたその事実は目に見えそうな信頼と同様に心に根付き鼓動と共に脈打つのだろう。それを確認する様に耳を傾け生を実感しては微睡み。
「(この際なんでもいいのだけれど……どさくさに紛れてこれは流石に変態オヤジという他ない、気がする)」
「(鍛えていなけりゃEはあっただろうな……間違いねぇ)」
いつもより下方に位置するリヴァイのその顔は朗らかなものだったという。
END.
おまけ
「本当に元通りになってますね……」
「……どうやら紅茶に睡眠薬を盛られていたらしい」
「えっ本当ですか?まさかのごり押し……」
「冗談だ。あいつはそういった事を嫌う」
「そうなんですか……ではどうして寝れたのですか?」
「(……墓穴を掘っちまったわけだがどうしたものか)」
「あぁ、それならと添い――」
「黙れクソメガネ」
「スン……の匂いが――」
「よせミケ」
「リヴァイ、お前まさか不埒な行いを――」
「してねぇから安心しろ、エルヴィンよ」
「結局真相は分からなかったわ……こうなったら分隊長ご本人に聞いてみようかしら」
「お呼びです?そうですね、隠すまでの事ではありませんしお答えしましょう。あの人の睡眠促進法はズバリ、抱き枕で――」
「あらぬ誤解を招きそうな発言はするな大人しく寝ていろこの馬鹿が」
おわり
ATOGAKI
だからキャラ視線は苦手だとry場面転換に乗じて視点変えますた。兵長は主人公に関する事で恥ずかしいと思う事柄は隠したいものです。言わせんな恥ずかしい。そう言う事です。
就寝時→やましいきもちはありません心音聞いてるだけだし(震え声)それは置いといて主人公はこの時点では兵長がひとりの時どんな寝方をしてどのくらいの睡眠時間なのかは知りません。
なにはともあれこれを期に主人公が大怪我しても心配しなくなった兵長でありましたとさ。