She never looks back







「これは戦略的撤退である」


もはや方角さえも分からぬ森の中。木漏れ日が照らす下草を踏みしめは冗談ともとれる台詞を言い放つ。 一陣の風、草木のざわめき、重ねるように聞こえてくる呻き声。

五感を支配するそれら全てを振り切るよろしくは踵を返し走り出した。こうなってしまったのも運が悪いからなのか、はたまた。 痛みを堪えるように顔を僅かに歪め、小立の合間を戦慄と共に走り抜ける。

生い茂る樹葉から垣間見える大空には、白鴉がまるで見届けるかのように羽ばたいていた――。








 ― 彼女の想い 改良作戦編 ―







何度目かの壁外遠征、その帰路を進む調査兵団一行は指揮を執るエルヴィンに続き馬を走らせていた。長距離索敵陣形は展開をそのままに森の奥深くへと進んでいく。


「この森を抜ければ壁まであと一息だ」

「ちょっと不気味だね。いつもより巨人と遭遇する回数も少ないし」

「……何処に潜んでいるか分からない。気づかれる前に通過するとしよう。無事に森を出られれば暫しの休憩を挟む」

「了解。後続と殿に伝令を送っとくよ」


ハンジは班員に伝令を頼むと次いでリヴァイに目を向けた。彼は相も変らぬ仏頂面で前方を見据え、横から突き刺さる視線を意に介す様子はない。 巨人も見かけない上に退屈だ。少しからかってみようか。なぞと些か不謹慎な企みを逡巡したのち、ハンジは人の悪い笑を作ると口を開いた。


「もしかして、伝令役をやりたかった?」

「…………」

「おーい、リヴァイ。聞こえてるんだろ? 前ばっかり見てさ、が居るのは正反対の後ろだよ」


執拗に投げかけられる言葉。このまま無視を決め込めば更にエスカレートするに違いない。 そんな予感も然ることながら言わずもがな我慢の限界に達したのだろう、リヴァイはウンザリとした表情を浮かべながらハンジを一瞥すると渋々応える。


「……うるせぇな、クソメガネ。殿が前に居るわけねぇだろ。それに伝令が走るのは真後ろの班までだ」

「別に直接伝えに行ってもいいんじゃない?」

「いいわけねぇだろうが」


流し目で睨まれはしたがハンジは満足したらしい、わざとらしく肩を竦めた。それがリヴァイの苛立ちを煽っていると分かっているなぞ――それこそ言わずもがなである。





 ♂♀


「――っ!!!!」

「単独部隊長ォ!!!」

「っ……そ奴で、私の馬で伝令に戻ってください」

「で、でも、部隊長……今、怪我――」

「問題ありません。早く行ってください」

「……っどうか、ご武運を!!」


 ♂♀





暫くすると後方から赤の信煙弾が上がった。視界を遮る緑葉の隙間から辛うじて見えるそれは、何筋もの直線を描いている。


「一気に来たのかな? それともただの伝達か……視界が悪くて分かりにくいね」

「黒の煙弾も上がったようだ。そろそろ森も抜ける……リヴァイ、援護に向かえ」

「……了解だ」


エルヴィンの判断が吉と出るか凶と出るか。リヴァイは馬を反転させ真方向へと走らせた。すれ違う団員たち、荷馬車護衛班を越えれば単騎で駆けてくる兵士。 恐らく伝令兵だろう、進行方向を横切っていく姿を捉え視線を外す――筈だった。


「早く伝えないと――うおっ!?」


リヴァイの目の前で唐突に馬が騎乗する団員を振り落とす。近くに巨人の姿もなければ発狂するような場面でもない。それなのに何故暴れだしたのか。 手綱を引きリヴァイは直ぐさま落馬した団員へ駆け寄った。


「怪我はねぇか」

「兵長……!」


尻餅をついていた団員は「お恥ずかしいところをお見せしました」と言いながら直様立ち上がる。リヴァイが見ていた通り、唐突な出来事に互いに首を傾げ。 そんなふたりを余所に馬は何事もなかったかのように静かに佇んでいた。

そこでふと気づく。この馬はもしや。


「……こいつはの馬か?」

「は、はい! 殿および周囲の班へ伝令に向かったのですが……その最中私の馬は巨人に潰され、単独部隊長が自分の愛馬をと……」

「チッ、馬鹿が……じゃじゃ馬押し付けやがって」


不思議なことに奇妙に頭の良いの愛馬の事だ、恐らくリヴァイを見つけわざと目に留まるように仕向けたのだろう。その証拠に今や平然と草を咀嚼する始末。一体何がしたいのか。


「あいつの危機でも知らせてやがるのか? つくづく末恐ろしい奴だな、お前は」


むしゃむしゃと暢気に口を動かす愛馬の鼻筋を撫ぜては嘆息。ともあれ今後暴れる事はないだろう。団員を再び乗馬させ己の馬を預けると立体機動に切り替え奥へと進む。 森のいたるところから聞こえる騒音。上空を漂う大量の赤と黒の信煙弾。果たしてはどこに居るのか。リヴァイは虱潰しに戦闘中であろう現場に向かうのであった。


(あいつの事だ、滅多なことがない限り窮地に陥る事態にはなっていないだろうが……何故だ、胸騒ぎがしやがる)





 ♂♀



「伝令です!! 陣形後尾の数班が巨人と交戦中、内死者数名を確認、情報は引き続き更新中です!」

「ご苦労だった。劣勢か?」

「いえ、現時点で新たに出現していない限り状況は優勢、直に戦闘は収束するかと思われます!」

「そうか。殿の動きはどうなっている?」

「それが……伝令によると負傷している、との事で……しかし生存は確認されております。無事に切り抜けられていれば合流できるかと……」

「わかった。引き続き警戒を怠るなと周囲の班に伝えてくれ」



 ♂♀





――その頃、は1体の巨人と対峙していた。陣形から離れた位置、殿を務めていたが為においてけぼりになったと言うべきか。 それにしても最初に遭遇した場所からかけ離れすぎてやしないか。


「お馬さんを譲ったのは早計だったかもしれない」


あれはつい先の事だ。他の班員と混じり馬を走らせている最中、複数の巨人と遭遇した。 全員で応戦しほぼ討伐に成功、いつものように班員を撤退させ、残る数体を引き受けたは対峙している内に森の奥へと進み。 立体機動には最適な環境とは言うものの暴れ狂う巨人が木々を薙ぎ倒し、木と木の生える間隔が狭いがゆえに苦戦を強いられ、終いには土煙で視界も悪いときた。

もっと開けた場所に移動しよう、そう思っていた矢先。運悪く鉢合わせてしまった伝令兵、倒れる木を躱した先に待ち受ける巨人。 なんとか伝令兵を助ける事に成功したが肝心な馬を潰されてしまい、代わりにと近くで見守っていた己の愛馬を渡したというわけである。

森の中ならいざ知れず、抜けた先ではどう移動すれば良いのやら。一緒に逃げた方が得策だったのでは。後先考えず行動した結果がこれだ。 この時のは伝令を聞いて居ないので休憩の事は知る由もない。

それはともかくである。問題は伝令兵へと襲いかかろうとする巨人の気を己に向けようとした、その瞬間に負ってしまった怪我が殊の外深刻だという事だ。


「これじゃあ操作装置を握ることさえ出来ない……」


力なく垂れ下がる左腕。痛みも尋常ではないそれは見なくとも分かる――折れているのだ、と。 巨人の手と木に挟まれたのだから当然である。伝令兵に襲いかかる巨人とは別の巨人が死角から手を伸ばしてきたが為に避けるのが間に合わなかったというわけで。

やってしまった、と嘆息するは取り敢えず腕を折った直後、反射的に1体の項を削いだものの次第に痛みを発する腕から操作装置を取り落とし、拾うこともままならない状態になってしまった。 仕方がない。は見下ろしてくる巨人と真っ向から対峙しながら宣うのである。


「これは戦略的撤退である」


ろくに立体機動も出来ない状況、息付く暇もなく襲いくる巨人に背を向け走り出した。気休めにもならないと分かっていながら時間稼ぎよろしく巨人を撒くべく、木々の合間を縫うように疾駆する。 人間の足では到底敵わない事なぞ先刻承知。それでも真っ向から対峙するなぞ勇敢を通り越してただの無謀だ、と。それを理解できるくらいには冷静さを欠いてはいないつもりだった。 いつか試みた片側操作が出来る程のガス残量でなければ、片腕で斬りかかれるような状態でもない。絶体絶命のピンチ。それでも脳内に『諦め』の文字は終ぞ浮かぶことはなく。


「こんなところで、死んでたまるかってんですよ……!」


左腕が痛い。泣けるくらい痛い。正直走るのもしんどい。引きずる操作装置を懐に仕舞う事も出来まい。ついには右手に握っていた操作装置でさえも刃と共に鞘に突っ込み手ぶらになる始末。 折れたのが足でなくて良かった、ここが平地でなくて良かった。つくづく悪運の強い人間だと苦笑する他ない。だからと言ってこの状況は『最悪』な事に変わりは無いのだが。

腕を抑える事もままならない状況下、前方に回り込まれ攻撃を躱すも同時に激痛が襲う。 心なしか左腕だけ制服の袖に締め付けられている気がする。否、見たこともないほどに腫れ上がっているのだろう。 当木でも調達するか。そんな暇があるわけないでしょうに。もはや何を優先すべきかさえも見失いかけていた。


「とにかく、まだ周辺に他の班が居る筈……どっちだっけか……逆方向に進めていればいいのだけれども……」


それでも尚、他のものへの配慮を怠ることはなかった。決して己が巨人を引き連れて仲間と遭遇させてしまう事が無いように。 己の不手際で招いてしまった窮地に巻き込みたくはないがゆえに。 ――そんなの思いを余所に、事態は悪化の一途を辿るのだ。


「きょじん、は、なかま、を、よんだ」


まさかの2体目出現である。前門の巨人、後門の巨人。挟み撃ちよろしく歩みを進めてくるそれを交互に見遣っては横に逸れ、伸ばされた手を掻い潜り。


「流石に2体を撒くのは骨が折れる……骨折だけに。なんつって」


珍しくも汗を流す、というよりも痛みで脂汗が滲んでいると言うべきか。心なしか息も上がっている。やわな鍛え方をした覚えは無いのだが、干物女代表が聞いて呆れるとはこの事か。 内心で自嘲の笑みを浮かべた。ついでに心の中でちょっと泣いた。決して表に出ることはないその衝動を飲み下す。意味もなく。ただいたずらに。

冗談を言うだけの余裕があるわけではない、言わずにはいられないのだ。己を奮い立たせる為に、冷静さを失わない為にも。 周囲に頼れる人間も居なければただひとり窮地に立たされている孤独感。 己はそれを望んでいた筈だ。ひとりで戦う事を。周囲を気にせず自由に飛ぶ事を。だからこそ。

――無我夢中でひた走る。木々を抜け開けた場所を突っ切る。再び木立の合間へ飛び込む既で――立ち止まる。


「泣き言なんて、誰が言うか」


それは一瞬だった。聳え立つ木を目前に振り返ったその刹那。巨体の鋭敏たる跳躍、瞬きも許さぬ速さで巨人が眼前に差し迫る瞬間、は躊躇うことなく――前方に飛び込んだ。

頭上を飛ぶ巨体とすれ違う小柄な体躯。は巨人が跳躍したが為にできた地面と巨体の、その僅かな隙間を狙って潜り込むように身を投じ、見事回避に成功したというわけで。しかし。

の体は着地したものの2転3転し、巨人の顔面が幹にのめり込むと同時に失速し止まる。次いで来たるは激痛だった。 幹にぶつかった衝撃で僅かに宙に浮いていた巨大な足が力なく落下し、真下に位置していたの足がそれの下敷きになってしまったのだ。 流石に巨人の身長を越すほどの脚力は残っておらず、即ち飛距離が足らなかったと。窮地を脱出できたとは言い難い結果である。

もしかしたらその足までも折れたかもしれない。最悪だ。質量に合っていない重さとは言うものの、人間の足は巨人の足と比べれば枯れ木の小枝に等しく、抜け出すことは不可能に近い。 巨体を退けることも片腕だけで這い出ることも叶わず、は現状を把握するとゆるりと顔を伏せた。

その場に存在する生きとし生けるもの全てに彼女の形相を伺い知ることは出来ない。 そればかりか、自身にでさえも。


「万事、休す……」


――己はこんなところで終わるのか。まだなにも守れてはいないというのに。日々の暮らしの中で、巨人の脅威から逃れることが出来ない大切な人の、その恐怖を拭うことも出来ず。 家族、友人、敬愛する人、信頼を置く人、親しい人、仲間……先ほど逃がした団員の生死でさえも分からぬ今この時に。


「…………っ」


羽根は大きな翼から抜け落ちても何処へだって飛んでいける。たとえ地に落ちようとも風があれば再び舞える。しかし重しを乗せられては、何もできやしないではないか。 自由を奪われた羽根は、こんなにも無力で。


――ちくしょう。


動かないと分かっていながらもは手のひらを握り締めようと力を込める。無駄な足掻きだと理解していながらも這い出ようと試みる。


――生き残るのではなかったのか。


己の確固たる意志を妨害せしめる巨体が忌々しくて。既にいつもの冷静さは存在しない。どんなに無様だろうと悶え身をよじり、荒く呼吸を繰り返す。


――守りたい人を守るって、決めたじゃないか。


指が砂を削り爪が割れる事も厭わず、何度も腕が滑ろうとも患部が悲鳴をあげようとも、足掻く。


――私はまだ、全てに許されてはいないというのに。


何度でも手を伸ばす。何度でも痛みに耐える。何度だって挑戦してみせる。残る巨人の足音が近づいて来ようとも、この絶望から這い出るためならば――。

頭上を覆う大きな影。伸ばされた大きな手のひら。掴まれるマントと制服、次いで宙に浮く感覚。無理矢理引きあげられたが為に来たる足の開放感。


「私は本当に……悪運だけは強いねぇ……」


は摘み上げられたのだと理解すると同時に、鞘に刃と共に刺したままであった操作装置を勢いよく引き抜き体を捻った。

たとえ状況を打開できる力がなくとも、にはそれを凌駕するほどの悪運と経験からくる反射的な判断力がある。だからこそ今まで生き抜いてこれたのだ。 それは確固たる意志があったからこそ成せるものなのかもしれない。己の弱さを知るがゆえに強くあろうと心身共に自虐し鍛えたからこそ。

反則的なまでの反射神経が研ぎ澄まされる。衣服を摘む指を切り落とし焼けるように熱い血飛沫を浴びて尚、は目を閉じる事なく瞬時に引き金を絞った。 射出されたアンカーは屈む巨人の肩へ突き刺さり、間を空けずワイヤーを巻き取る。ベルトの負荷が足にかかる度に激痛が襲うのも構わず全体重を乗せる。

止まることも怯むことさえも許さず、巨人の背後に回った体を酷使しアンカーの標準を項へと定め――的を捉える好感触、距離を詰めガスの噴射のみに切り替えた体は回転し、片腕で二度斬りつける事に成功した。


「……もう、限界です」


ガスも体力も。後は成り行きに身を任せる事にした。地面に打ち付けられる衝撃に手放しそうになる意識、その夢と現の狭間で鼓膜を揺るがす巨人の咆哮。 試合に勝って勝負に負けるとはこの事か。なんか違う。やはりと言うべきか仕留め損ねたらしい。火事場の馬鹿力は無に帰し、数分と経たず巨人は襲いかかって来るのだろう。

地面にうつ伏せに寝そべる形で身動きひとつ出来やしないこの有り様で何ができると言うのか。 力を振り絞り目を開け現状を把握しようと試みるも、視界は霞み思うように周囲を確認することは叶わない。 これが正真正銘、万事休す。もはや負傷箇所にとどまらず、全身に走る激痛に苛まれたその身は意識を混濁させるには十分なほど、満身創痍に成り果てていた。


―― “ 少しは自分を大切にしてくれ。”


いつか聞いた、懇願。まるで己の事のように心を痛める友人は、何を思ってそう口にしたのか。


「無謀なマネはしなかった……ちゃんと状況を理解して逃げた……それなのに、このザマとはこれ、如何に……」


団員を逃がして自分も逃げることを選んだ。片腕だけでは満足に戦えないと判断したからだ。勇敢と無謀は紙一重、それを確と理解できたがゆえ。 しかし結果は腕を折るよりも悲惨な状況に陥ってしまった。こんな筈ではなかった、と。――果たしてそう言い切れるのだろうか。

何がいけなかったのか。どこから判断を見誤ったのか。庇われずに済んだというのに。ただ己の弱さを突きつけられただけで、痛感させられただけで。 誰も死ななかったのだから良しとすればいい。たとえ己がこうして地に這い蹲り無様な醜態を晒していたとしても、に後悔も無ければ満足するに足る結果になり得たのだから。


―― “ 絶対に命だけは使うなよ。許さねぇかんな。”


「逃げて、追い詰められて、絶体絶命の窮地に立たされた現状の、どこに満足できる要素があるのだろうか……全然駄目じゃあないか」


ここで満足して死を受け入れてしまったら、それこそ “ 逃げ ” になるだろう。己は死なないと、死んでしまったらそれこそ償いから逃げる事になるのだからと否定を豪語したのではなかったか。 それは戦略的撤退とはまったくの別物だ。頭では分かっている。分かっているのだが、如何せん体が言うことをきいてくれない。 諦めてしまえば、今までの人生が無駄になってしまうというのに。

地鳴りにも似た振動。まるで巨大な物が転倒したようなそれ。奇行種が遊んでいるのだろうか。と言う事は一体全体己はどんな殺され方をするのだろうか。 せめてひと思いに痛み無く死にたいものだ。は人知れず奥歯を噛み締めた。生き残るという意志は未だ健在だというのに、この場を動くことが出来なければ無意味この上ないと思い知る。


――あぁ、こんな筈ではなかった。


どれほど生にしがみつこうとも、死は訪れる。生きているがゆえに。人間がゆえに。たとえ悪運が強くとも、生き続ける義務があろうとも。 どれほど屈強な意志が存在しようともまるで嘲笑うかの如くいとも簡単に薙ぎ払い、果ては呆気なく生を奪う。死とはそういうものなのだと知っていた。

何度も目にしてきたからこそ。無残な光景を焼き付けてきたからこそ、は抗う気力を失い――目を閉じる。今まで必死でしがみついてきた生とさよならする最期の時間。 体に降り注ぐ陽の光が暖かい。寝るには最適な心地よさ。かと言ってお世辞にも寝心地がいいとは言えないけれども。あぁ、聖域のベッドで寝たい。どこか既視感を覚える思考。


――そう言えば、約束をした気がする。


一体誰と。いつ。どこで。


――こういう時、思い出すのはいつも。


我ながらに女々しいと思った。いつぞやも同じ事を思っては恐れ身を震わせた。繰り返される滑稽さ。 だが絶望の中で足掻こうと奮起する理由は、それだけで十分なのだと思うのだからしょうもない。


――まったく、おちおち死んでいられない。ちくしょう。まだ私は戦える、筈だ。違う。戦わなくてはならない。


諦めたらそこで終わる。まだ死んでいない。だから生き残る為に戦う。その意志を無意味とは言わせてなるものか。ははたと覚醒する。

全身を駆け巡る痛み、それさえも糧とし朦朧とする意識を呼び起こす。暢気にだいすきな仲良しを思い出している場合ではないのだと。

そうと決まればなんとやら。は再び意識を飛ばす暇を与えず、静まり返った周囲の気配を探ろうと感覚を研ぎ澄ました。 微かな物音さえ聞き逃すまいと聴覚をフル活動させる。落ち着け。巨人が近くに居るのなら何かしら聞こえるはずだ。 息を殺し全神経を集中させ――風の音さえもしない不自然さに気づいたのはこの時だ。


「……?」


怪訝に思い今一度目を開け現状を把握しようと試みる。残る一体の巨人は寝てしまったのだろうか。そんな馬鹿な。 再生するには十分な猶予があった筈だ。尚且つ目の前には餌が身動きできず転がっていると言うのに、もしかしてユミルなんちゃら信仰者なのだろうか。そんな馬鹿な。

霞む視界を鮮明に正そうと瞬きを繰り返す。そして、目にしたものとは。


「言葉の意味を理解できていないからこそ、こんなクソみてぇな有り様になっちまってるんだろうが」


またか。また己はどっかの誰かさんの気配を察知することが出来ていなかったのか。というより、今回は絶対故意に気配を消してやがったな。思わず眉間に皺が寄る。 しかしどうして気配を消し立っていたのかとか、何故に腕を組んで尊大な面持ちで見下ろしているのかとか疑問は尽きないまでも、これだけは分かるのだから苦笑する他ない。


「これは手厳しい……死に際に掛ける言葉じゃあない」


いつから居たのかその男――リヴァイが現状を解説してくれているのだ、と。来たなら気配を消さず普通に声をかけて欲しいとは口にせず、安堵する己が居る。


「要は解釈の仕方が間違ってる。逃げたことは褒めるべき判断だが『自分を大切にする』その真意にたどり着くには一歩及ばず、といったところか」

「尚且つ話が長いときた……もう結構ですお腹いっぱいです思考回路も破裂しそうです」

「お前は近くに他の班が居ると知ってたんだろ? なら助力を請うべきだった。巻き込みたくはないだなんだと余計な事を考える前にな」

「いつものことだけどお願いだから私の話を聞いて。なに、貴方は耳が遠いの。もうそんな歳なの」

「結果は誰にも分からん、が……もし他の班と合流したとしてもお前もろともそいつらも死ぬ事になったか、最終的にお前だけ生き残る結果に終わったかもしれん。だが、お前は見縊りすぎだ」

「本当にお説教が始まってしまったようです。どうしてこうなった」


思い出したかのようにそよそよと風が吹き、鼻を突く肉が焼け焦げるような匂いを伴う蒸気が運ばれてくる。いつ嗅いでも慣れない不快感、それが意味する事とは。 言わずもがな巨人はリヴァイの手で討伐されているというわけで。だからと言って悠長にもお説教をしている場合ではないのでは。 身動きできないは口を動かすだけで精一杯だというのに、その唯一の対抗手段である言葉だけでは止められないのだから素直に聞き続けるしかない。お説教、その続きを。


「今回の遠征に参加している団員は、何度も壁外から生き残ってきた奴らだ。お前はそんな奴らが弱いとでも言うつもりなのか?  なぁ、よ……答えろ。腕が折れたお前よりも頼りないと、そう思ってやがるのか?」


有難いお説教を拒まんとするの真意。己の無様な有り様を反省すべきだと分かっていながらも耳を覆いたくなるその理由は。 ――この疲弊した精神で受け止めるにはあまりにも酷なのだ。まるで追い打ちと言わんばかりに紡がれていく言葉が容赦なく突き刺さる。鬼だ。鬼畜だ。慈悲はない。


「……違、う。そんなつもりは、毛頭なかった。私はただ……巻き込みたくはなかっただけで、決してみんなが弱いだなんて思っていない」


だが、こういう時だからこそリヴァイの辛辣な言葉が身に沁みる。余すことなく、教訓として叩き込まれる。同じ失態を繰り返さないようにと念入りに刷り込まれていく。 彼なりの甚だ実直なまでの優しさ。静かに憤るその厳しさ。それが分からないなぞと冗談をほざける道理はなく。


「知っている。お前はそういう奴だ。だからこそ少しはそのクソみてぇな行動を改めろ。仲間を巻き込まずひとりで逃げるだけじゃあ、自分を大切にしたとは言えねぇからな」


はほんの僅かに頷きを返した。これが今出来うる最大限の動作なのだが、果たして膝をつき頬についた土を払うように這うリヴァイの指に伝わっただろうか。


「……及第点をくれてやる」


徐ろに抱き上げられたは感じる温もりに安堵し目蓋を下ろす。とうの昔に限界を超えていた体は正直だ、一瞬にして全身から力が抜け意識を手放した――。




 +++




腕の中でまだ壁外だというのに無防備に眠りについた。リヴァイは安らかな寝顔を確認し、息を吐く。こいつの精神力は底なしか。 泣き言ひとつ叫ぶことなく諦めず最後まで戦おうとするとは。一瞬垣間見えた張り詰める空気を思い返しては無意識に抱く腕に力を込めた。

間に合って良かった。あの調子であらばひとりでも何とか出来ていたかもしれない、なぞと思わせる気迫を感じても尚、駆けつけられた事に緊張が弛緩していく心。 到着する直前まで焦燥に駆られていた。しかし姿を捉え生きていると認識した瞬間、喜びに塗り替えられた心中。

壁外では滅多に味わえない幸福。たとえ間に合ったとしても最終的には息を引き取る者も居る中で、表情には出さないまでも安心するこの瞬間が心底愛おしいと思う。

何度も経験した。死にゆく者を看取る事も、亡骸をただ眺めるしか出来なかった事も。何度も。幾度となく。 だからこそ今感じる温もりが奇跡にも似た特別なものとして殊更嬉しく思えるのだ。


「――――……」


無数の傷をこさえた満身創痍な体。辛うじて生きている、と言える程の外傷ではないまでも、血と汗と土で汚れた全身は見るも無残と言う他ない。 足を見遣ればブーツは焦げ、その中は一体どれほどの火傷になっているのやら。 腫れ上がり些か窮屈そうな袖。早く的確な処置を施さなければ骨がおかしな付き方をしてしまうかもしれない。折れていると言うのに動かしすぎだ。 落下の衝撃で地面に叩きつけたようだが肉を突き破らなかったのが奇跡である。大方持ち前の反射神経でかばう事が出来たのか。それにしても。


「……馬鹿が」


が『自分を大切にする』のは、いつになるのだろうか。いつ出来るようになるのだろうか。正確に理解するまではどれほどの時間を要するのだろうか。


「あと少し、その少しが長いときた……頑固オヤジか、お前は」


もう少し素直に捉えればいいものを、大切な人を守ると言う意志が頭を固くしているのだろう。普段はちょろい癖に大事な局面で意固地の本領を発揮するなと言いたくもなる。

自己犠牲精神、弱いと思い込むがゆえに張られた虚勢。強くありたいと切望する直向きさ。それが殊更顕著になる危なっかしい飛び方。 悪く言えば盲目的、その思考に影響され馬鹿正直に反映してしまうそれ。ひとりになるとガス残量を気にしないばかりか、温存さえも忘れ限界まで全力を出し続ける始末。 気をつけるころはなにも周囲の警戒だけではないというのに。

単独部隊を与えられる前はガスの使い方に定評のあっただが、自由になった途端にこれだ。本能に忠実と捉えるべきか、本当に変なところで素直である。

そうして危機に直面し、負ってしまった怪我の度合いがこの上なく大きなものになる。それを目の当たりにする身にもなれと言いたい。これ切実。 壁外に出る度に怪我を負うわけではないにしても、たまに負う傷を見てきたからこそ次はいつ、どこを。不安になってしまうのも道理だ。心配するに決まっている。

(こいつは自分が弱いから周囲を不安にさせちまうと思い込んでいるが、見当違いも甚だしい。こいつは十分強い。幾度となく繰り返される壁外調査を生き残ってきたのがその証拠だ)

こと戦闘面に関して危惧するのは複数戦闘においてだけだ。それ以外の実力は文句のつけ所が見当たらない程で。 窮地に陥ろうともそれを凌駕する反射神経、判断力。それを最大限に活かす為に磨き上げた戦闘技術。そしてそれらを支える根幹、生き残るという確固たる意志。 どこにも不安要素など見当たるまい。そう、思うのだが。

一見心強く見える能力。――だが、は危うい。その真意は言わずもがな精神面にある。人間本来の深層心理、確固たる意志は諸刃の剣になるのだ、と。

大切な人を守る。誰も巻き込みたくはない。何度も口にしていた利己的でいて誰よりも優しきその本心。それがイコールで繋がるとすれば『甘さ』に他ならない。

なんとしてでも生き残るとは言うものの、目的のために手段を忘れているのではなかろうか。壁外ではガスが無ければ生き残ることもままならないと言うのに。 窮地に立たされても尚、助力も乞わずひとりでなんとかしようとするのは傲慢以外の何ものでもない、というのに。 即ち、大切な人を守る事も出来なくなる。怪我を負う然り、ガス欠然り。戦えなくなれば死ぬ。死ねば何も出来やしない。己の甘さが招いた結果がこの有り様だと何故分からないのか。

いつか必ず取り返しのつかない事になる。これは確信にも似た予感だった。単独部隊というひとりで戦う場を提案した張本人であるにも関わらず、リヴァイは再び焦燥に駆られ。

(そうなる事は予期していた。今以上に、それこそ二度と飛べなくなるような怪我を負うことも、死ぬことさえも。だが――)

責任の一旦は己にある。しかし不思議と後悔はなかった。に与えられた自由の代償はあまりにも大きく、憂慮せざるを得ないものとなってしまったというのに。何故ならば。

(だが――どれほど危うくとも、こいつにはどのような状況下でも屈しない確固たる意志がある。それがあり続ける限り、何度でも)

そう、何度でも飛ばせる。縦横無尽に舞う羽根となる存在として何度でも空へ。自由へ。自身が望み、リヴァイもまた望むその姿を見ていたいが為に。 いつか見た、楽しげに舞い飛ぶ羽根。己と共に飛ぶのが楽しいと宣う微笑みに心打たれた己の想い。それを実現させ続ける為に、リヴァイは手を尽くすのだ。

(まずは『自分を大切にする』という言葉の意味を叩き込まなきゃならん)

どんなに危うい飛び方でも、その原因を改善させる事は出来る。否、改善させてみせる。それが自由を与えた己に課せられた責任なのだと。 とんだ物好きだ。だが満更でもない己が居る。むしろ自ら率先して手を焼いている気がしてならないが、ともあれ言わずもがなである。


「俺こそ、“甘さ” の塊なのかもしれねぇな」


それはへ然り、己へ然り。いくら彼女が戦い続けたいと願っていたとしても、何よりも己が見ていたいという願望を優先している気がしてならなくて。 本当にこれでいいのだろうか。苦しみ続ける彼女に鞭を打ち、何度でも飛ばせる事は果たして正しい行いなのだろうか。

――否。

やはり己は、彼女の意志を尊重したいと強く思う。利己的でもなんだろうとも構わない、彼女が生を諦めないのならば。それで。


リヴァイは思案する。生き残るという確固たる意志を尊重したまま、考え方を改めさせるにはどうしたらいいのか。 先ほど説教はしたものの、それで理解できたとしても行動に移せるかは別物だ。頭では分かっていても今まで培い根強く存在する思考は手ごわいだろう。

誰しも窮地に追い込まれた時に脳裏を過ぎるは、普段から持つ慣れ親しんだ ” 思考 ” だ。根底にある最優先事項、の場合は『大切な人を守る』という目的。 そして次にとる行動は『生き残る』為の手段。生き残って大切な人を守りたい。目的と手段が直結し、それでいて最もよろしくない公式の完成だ。

『大切な人を守る』だから誰も『巻き込みたくはない』、己は『庇われたくはない』――なれば『ひとりで戦えばいい』それなら『誰も死なず』尚且つ『自分も生き残られる』。 これ即ち導き出される答えは最悪の状況を作り出してしまう可能性が高いというわけで。

もはや何が目的で手段なのかさえ混沌とする思考回路。生き残って大切な人を守りたい。だから誰も巻き込まず、庇われて死なれるのも嫌なのでひとりで戦う。 しかし怪我を負ってひとりで戦えば生き残られる可能性は大いに激減する。身動きできず死ぬ危険性がつきまとう。それゆえに生き残られる確率が極端に低くなる。


「これで本当に生き残りたいと思っているのか……?」


ひとりで戦う事もまた、残さなければならない戦法だ。これはの強みでもある。その為の単独部隊なのだから。 即ち問題はそこではない。何も今更複数戦闘を身につけろとは言わない。 つまりはひとりで戦う場合において『ガスの温存を怠ってしまう事』、そして『満足に戦えない状況下で尚ひとりで戦おうとする』その意固地な考えを直さなくてはならないのである。

なんともまぁ、難儀な思考回路してやがる。呆れる他ない。馬鹿なのだろうか。馬鹿なんだろうな。今まで生きてこれたのが不思議である。


「こいつはこの矛盾に気付いていないらしい」


生き残りたいと言いながら我先に危険へと飛び込み窮地に陥る。これでは生き残られるわけがない。即ち矛盾しているという事だ。 は決して『自分が強い』と思っているわけでもなく、無意識下で選んでしまうのだ。誰かが危険に晒されるよりも自分が身を呈する事を。

だからこそ、その『矛盾した部分』を改善させる必要がある。意志を尊重したまま如何に思考を変えられるか。それは微妙なさじ加減を要する難しい矯正になるだろう。 それでもやらなくてはならない。リヴァイもまた目的の為に手段を用いるのだ。何故ならもしこの矛盾がなくなれば恐らく――。


「兵長! そ、の人は……もしかして……!?」


どうやら己は随分と長い間立ち尽くしていたらしい。ふと見上げれば青の信煙弾が大空へと伸び、撤退を報せているではないか。 そこで漸く気付く愚かしさ。偉そうに説教たれといてその実、の有り様を見て動揺していたとは。深い思考に飲まれていたのはそれゆえに。安堵し気が緩んでいたなぞとんだお笑い種だ。

腕に掛かる重みが生を実感させ現実に引き戻す。不思議そうに此方を伺う部下に気取られぬようリヴァイはそれを抱え直し指示を出した。


「……ペトラ、こいつの介抱を頼む。オルオたちはそこでのびてる巨人を片付けておけ」


木に衝突し体力が尽きた巨人の項を削ぐ姿を確認し、次いでペトラを引き連れ本隊が待機しているであろう場所に向かう。 深く被せたフードの下からは、相変わらず規則正しい寝息が聞こえた。



 ♂♀



撤退するべく団員たちが慌ただしくもその準備に追われている直中。荷馬車へ物資の積み込み、死体の搬送、ルートの確認。 各々やるべきことを全うしているその中では目を覚ました。

瞬時に目を凝らせば眼前に広がる布。骨組みに沿い張られたそれを幌だと認識しては、幌馬車に寝かされているのだと理解する。 当木で固定された腕。頭部を覆う包帯、もはや冷たさを奪われた足の湿布。背中に伝わる固い感触がいつかの夜を思い起こす。


「…………痛い」


打撲、擦り傷、骨折、火傷、エトセトラ。どうしてこうなった。外界の物音を聞きながらひとりごちた。 そう言えば逃がした団員はどうなったのだろうか。己の傷の具合よりも他者を気にする彼女はどこまでもお人好しである。だが、思考は孤独と共に悪い方向へと流れ。


――かっこわるい。無様だ。滑稽だ。なんてみっともない。こんちくしょう。


窮地に立たされた挙句、項を削ぎはぐり、終いには助けられ説教を頂戴するとは。何よりも、壁外だと言うのに安堵し寝こけていた事が情けないことこの上ない。このばかたれ。 辛うじて自由を許された右腕で目元を覆う。土臭く、血生臭いそれは先の出来事を思い出させるには十分なほど鼻腔を刺激した。

息を吐く。息を吸う。呼吸を繰り返す。深く、長く。一先ずは窮地を脱したのだ。落ち着け。掻き立てられるように鼓動する心臓が穏やかなものとなっていく。 脳内で何度も言い聞かせ漸く強ばる体から力を抜くことができた。

腕を置いたがゆえに負荷が掛かり、鈍く痛む頭部を解放しようと右腕を元の位置へと収める。同時に耳にする聞きなれた声を辿り意識を向けた。


「――壁内に帰るまでそっとしておかないと、今起こしたら乗馬しちゃうかも。少しは自分の体を労わって欲しいよね……まぁ、それが分隊長の良いところ……なのかな?」


憂慮と共に紡がれる言葉。どうやらすぐ近くにペトラが居るらしい。誰かと話しをしているようだ。現に幌に掛かる人影はもうひとりの存在を教えてくれた。


「ちっ……みっともねぇ有り様だぜ……実力があるのは分かるが、調子に乗りすぎたんだろうよ」


痛いところを突いてくる子だ。考えずとも分かる、ペトラの話し相手はどことなくリヴァイの口調を真似たオルオであった。 ぐうの音も出ない正論に苦笑する他ない。すみません、みっともなくて。自分が一番よく分かっているので堪忍してください。これ切実。

気落ちするだったが、次いで発せられた怒声に思わずびくりと肩を竦ませる事となる。


「オルオ……! あんたなんてこと言うのよ!! 分隊長の気持ちも知らないでっ!!!」


起こさないようにと配慮していてくれたのではなかったのか。ペトラの些か大きな声は幌馬車の中にまでよく通った。 正直居た堪れない。己の為に憤る彼女に恥ずかしさと嬉しさが綯交ぜになり目を泳がす。他所でやってください。これ切実。


「うるせぇな! 俺はなぁ……大切な人を、仲間を守る為だかなんだか知らねぇが、こんなになってまで守られたくねぇって言ってんだよ!! 気負い過ぎだって自覚ろってんだ!!!」


はたと瞠目する。今、彼はなんと言ったのだろうか。口は悪いまでも、これはもしかしなくとも。


「まさかあんた……執務室での会話を聞いてたの?」

「……聞こえちまったんだからしょうがねぇだろ。俺は来訪者を記録する任を与えられてたんだ、盗み聞きでもしなきゃ誰が居るのか分からねぇ」


先日エルヴィンの策略によって溜まりに溜まった書類を一気に片付けていたとペトラ。それと同時進行していたもうひとつの計画。 任せられたのはオルオだと聞いた。そしてまんまと『ネズミ捕り』の餌食となった者たちが何とも言えない処罰を与えられた事も。

(なるほど。聞かれていたとは予想外だった。恥ずかしすぎる)

親しい間柄の人間にしか打ち明けずにいた本音。それを聞いたがゆえに発せられた言葉だとすれば。 ――は自然と上がる口角を自覚しながら焦れる胸の内で悶えた。彼は自分を嫌っていたとばかり思っていたのだから尚の事、嬉しさが湧き上がるのを感じ。


「女同士の会話を盗み聞き、ねぇ……褒められたものじゃないよね」

「ばっ! 俺は仕方なくだな――」

「でも許してあげる。あんたにも分隊長の事が分かったってことだもん、嬉しいよ」

「何でお前が喜んでんだ……お、俺は別に認めちゃいないからな! あんな飛び方し続ける限りは!!」


そして、反省するのだ。心配させてしまった事と、無茶をした事を。何度も目の当たりにしてきたではないか、と。 己を庇い、死にゆく者を。あぁ、嬉しくない。そうだ、嬉しくないではないか。庇われて死なれてしまった身にもなってみろ、と。


「……ごめん、なさい」


同じ思いを味あわせてしまうところだった。いつぞやは助かると確信していたが為に、オルオを庇って巨人の口内に飛び込んだ事もあった。 しかし今回はの本心を知ってしまった上に、あろうことか瀕死な姿をまざまざと見せつけてしまったのだ。これでは守られたくないと思うのも道理である。

今更ではあるが、大切な人を守るというのはとても難しいものなのだと気づかされた。心配すると告げたハンジも、お説教をしてくれたリヴァイもみなこの事を指していたのだろうか。 どこか中らずと雖も遠からずな解釈をし始めるが、彼らの真意を理解するのはいつになるやら。先が思いやられるばかりである。


「――その辺にしておけ。厄介な奴が起きちまう」


そんなこんなでお約束のリヴァイの登場に緊張が走る。いつも思うが些かタイミングが良すぎなのでは。とは思うものの。真実は闇の中であるからして。


「申し訳ございません! あの、分隊長は……」

「手遅れ……いや、一度寝たら起きねぇから安心しろ」


あぁ、バレている。は見えていないにも関わらず咄嗟に目を瞑り寝たふりを決め込んだ。まるで無意味である。


「良かった……」

「オルオ、お前は仕度を急げ。ペトラはあいつの監視だ」

「え?」


――え?


「道中、巨人と出くわさない保証はない。目を離せば我先にと幌馬車から這い出てくるだろうよ、あの馬鹿は。子守だと思えばいい」

「子守……兵長が付き添ってさしあげれば確実なのでは……」

「バカ言え、俺は先陣だ。何かあれば駆けつけるが特別扱いするわけにはいかねぇ。まぁ……這い出ようとしたら容赦はしなくていい、遠慮なく組み伏せろ。 幸いにも対人格闘は苦手なばかりか骨折している怪我人だ、簡単に押さえつけられる」

「そんな恐れ多い……分かりました。兵長の代わりになれるかは自信ありませんが、尽力します」

「……頼んだぞ」


トントン拍子で決まってしまった己の処遇に声を失う。いや、元より声を出してはいけないのだけれども。いやはや。 まさか再びペトラさんに監視されるとは……ご褒美です。なぞと冗談を言っている場合ではない。

は起きてしまっているのだ。乗馬は無理だとしても勿論巨人が進行してくれば戦う気でいた。しかしそれも叶わぬ夢の如く。 起きていることを悟られている事といい、思考さえも見透かされている事にもどかしさを覚えては人知れず嘆息するであった。

と、その時。まぶた越しからでも分かる太陽光が幌馬車内に差し込むのに気づいた。幌の後部に垂れ下がる布が捲られたのだろう、頭を向けていたの顔面に直射日光が降り注ぐ。 そろそろ出発する為にペトラが乗り込んで来たのだと喜びそうになるも、別人の気配だと分からないではなく。


「オイ、そこの狸寝入り。謝罪する暇があったら少しは言葉の意味を考えておけ」


やはりというべきか、期待はずれの人物に落胆を禁じえない。こんちくしょう。お説教はもう結構です。は陽の光が遮断されたのを合図に徐ろに目蓋を開け、己を見下ろす視線を受け止めた。


「なに、兵団内では盗み聞きが流行っているの」

「不可抗力だ。お前もとやかく言える立場なのか?」

「入れたくなくとも耳に入ってくるのだからしょうがない、不可抗力」

「おあいこといこうじゃないか。なぁ、

「ぐぬぬ」


頭上に腰掛け意地悪く覗き込んでくる顔が忌々しい。何より近い。主に顔の距離が。


「……俺が離れた途端に起きちまうとは、ほとほと世話のかかる女だな」


はて、この人は何を言っているのだろうか。疑問符を浮かべる様子に気づいたのだろう、リヴァイは「気にするな」とそのひと言で無理矢理話を打ち切り上体を起こした。 最後に壊れ物を扱うかのようにの頭を撫ぜ荷台から降り立つ。お互い顔を見ることなく、けれど今どのような表情をしているかなぞ見なくとも分かる。

伊達に共に時間を共有していまい。陽の光に眩む視界は荷台に伸びる影を捉え、惜しむ気持ちを払拭させた。


「壁内に着くまでは何が起ころうとも絶対に動くな。ペトラの手を煩わせたくなかったら大人しくしてろ」

「…………うぃ」

「お前は養生することだけを考えていればいい。言葉の意味も忘れるな」

「……そう」

「もし約束を違えば……どうなるか分からないお前ではあるまい」

「はい」


布の向こう側へと姿を消すリヴァイを見送る暇もなく、次いでペトラが乗り込みは静かに目蓋を下ろした。己は寝たふりをしなくてはならない。 たとえペトラが心配そうに覗き込んでいると分かっていても、大丈夫だと声を掛けたくとも。

こうしてたちを乗せた幌馬車は壁内に向けて出発した。道中、至近距離に巨人が迫ろうとも身動きせず、ただひたすら耐え過ごしては目を瞑り。 戦闘において最も信頼を寄せる男に守られるのも悪くはない、と外界から聞こえる音を聞きながら、裏腹な今にも飛び出したい衝動を抑え。


分隊長……」


控えめに掴まれた制服から伝わる外の様子を伺えない事への不安感。声を掛けるべきか否か考えあぐねるも、間を開けず紡がれる言葉に余計なお世話だと悟る。


「私がしっかりしなきゃ……直々に任されたんだから……本当は一番傍に居たいはずの兵長に」


これは尚の事寝たふりを貫き通さなくてはなるまい。盗み聞きは趣味ではないのだが、聞こえてしまったのだから致し方あるまいて。

どうしてこうも皆、己が居た堪れなくなるような話をするのだろうか。疑問は尽きない。そして羞恥も禁じえない。 無表情はデフォだが果たして騒めく心中を抑えきれるのか、困ったものです。

ペトラの自分を奮い立たせんとする独り言にも奮起を促され、言いつけを守る事が今のみっともない己に出来る唯一の戒めなのだと耐え続けた。


――遠くから鐘の音が聞こえる。城壁都市に聳え立つ鐘楼から鳴り響くそれは、壁内への帰還を知らせ調査兵を出迎える。 門を潜り聞こえたるは鐘の音だけに留まらず中央の大通りに群がる民衆のささやき声。歓迎とは真逆のそれ。調査兵は皆、この声の主たちを含めた人類全てに心臓を捧げ戦い帰還したと言うのに。 けれども。


「おめぇらは俺が用意した食材を食ったんだ、つまり無事に帰ってこれたのは俺のお陰だな! ……まぁ、全員ってわけにゃいかなかったようだがな」


一際大きい声。つい先日聞いたそれは激励しているつもりなのだろうか。それにしては些か不器用な物言いだ。しかし非難する民衆を黙らせるには十分で。


「なぁ、兵士長様よ。あのチビスケは生きてやがるか?」


続いてすぐ傍で聞こえる小声に、彼なりの配慮が見受けられた。との約束を忠実に守っているようだ。さすがオヤッサン。渋々ながらは目を開けペトラに布を開けるよう懇願する。


「……そこの幌馬車だ」

「おぉ、しぶてぇ野郎だ! 随分ボロボロになっちゃいるが生きて帰って来れたんだから良しとしてやんよ」


オヤッサンは持ち上がる布の合間から顔を覗かせるを視認すると駆け寄り破顔させた。ガシガシとぶっきらぼうに撫ぜる手が傷口を刺激するも振り払うことなぞ出来るわけもなく。


「なんでぃ、オヤッサン。本当に会いに来たと思ったら情けねぇツラしやがって。泣くか笑うかどっちかにしろってんだ」

「泣いてねぇよ、バカ野郎! 後で酒でもくれてやろうかと思ってたんだが気が変わった。おめぇにゃ病人食がお似合いだぜ」

「随分お優しいこって。ありがたく頂戴してやるから肉も持って来てくだせぇ」

「贅沢抜かすなチビスケが。おめぇにゃパン粥で十分だ。まぁ、怪我を治したら考えてやらんでもねぇがよ」

「その言葉、忘れんじゃねぇぜ」

「おう、任せとけや!」


豪快な笑い声に脱力しては救いがあるのだと信じずにはいられまい。命を賭した者、怪我を負った者、嘆き悲しむ者、悔しさに涙を流す者。 オヤッサンの鳴り止まぬ笑声はそんな沈んだ調査兵の心を前向きにし――。


「またな、。次も、そのまた次も何度だって好きなだけ俺たちを守ってくれや。しょうがねぇから素直に守られてやんよ、『ここ』でな」


もまた、その中のひとりとして呼応する。生きている限り何度でも立ち上がり戦う事を決意させる言葉に。 こうして屈託のない笑顔を向けてくれる大切な人を守り続けたいと、意気込み新たに左胸へ刻み。


「…… “ 言われなくとも ” ですよ、オヤッサン」


斜陽が降り注ぐ帰路を進む。民衆の望む戦果を挙げる事は叶わないまでも、希望の光は衰えることを知らないかのように、導き手となって彼らを照らし明日へと誘う。 調査兵団の先導をきるかの如く空を羽撃く白鴉の翼から、一枚の羽根が舞い落ちた――。









 +++








――鬱蒼と生い茂る木々の群れを横目に私は立ち上がった。自主訓練を切り上げよう。服のいたるところについた土を払い落としては兵舎のある方向へ向き直る。 すると目の前に佇む人影を捉え、思わず目を泳がせた。


「……覗き見とは素敵な趣味をお持ちで」

「気配を消した覚えはない。つまり気づかねぇお前が悪い」

「減らず口を……」


いつから見ていたのだろう。ひょっとしたら最初からかもしれない。こんなに近くに居たにも関わらず気づけないとは私も落ちたものだとひとりごちる。

夜の静寂を切り裂き音を奏でる緑葉。静かに、されど力強く吹き抜ける風は私たちの髪をも靡かせ、まるで何かを払拭させるように淀む空気を攫う。

考え事ばかりして訓練に集中できていなかった事は自覚済みだ。だからこそリヴァイの気配に気づけず醜態を晒す羽目になったとも。 拾い上げた操作装置を握り締め、刃を鞘に戻す。刃こぼれしたそれは使い物にならなくなってはいたが構わず最後まで収めた。後で替え刃を調達しておこう、そう心に決めながら。


「随分とみっともねぇ飛び方だったが、あれは新技か何かか? 普通に飛んでいても危なっかしい癖に笑えねぇ冗談はよせ」


リヴァイの口調は決して小馬鹿にしているわけではない。彼は腹を据えかねているのだ。月明かりに照らされ影が落ちる前髪から垣間見える、瞳の鋭い眼光がそう告げている。 言い逃れはできまい。私は渋々降参だと言わんばかりに操作装置を懐に仕舞うと、泳がせていた視線でそれを受け止めた。


「私は……誰に何を言われようが飛び方を変えるつもりはない。ガス欠を起こそうが、守りたい人が……大切な人が守れればそれでいい」


握るものが無くなった手のひらに、代わりに爪を食い込ませた。硬くなった皮膚を貫通することは終ぞ無かったが、血の気の失せた部位は鈍い痛みを生む。


「お前は何度死ぬつもりだ? 悪運が強い事は結構だが、見ている限り死んでもおかしくない場面は両手じゃ足りねぇぞ」


耳を塞ぎたいのに握り締めたこぶしでは無理で。それでも力を緩めることは出来なかった。尚の事無性に腹立たしい。 何故ならこの握りこぶしこそ痛いところを突かれていると認めているようなものだからだ。

記憶に焼きついて離れない光景が脳裏を過ぎる。死ぬ筈だった場面。目前ではためく、自由の翼。『悪運』で済ますには冒涜的な一瞬。


「何、言っているの……これは悪運なんかじゃない私は、守られてきたからこそ今ここに生きている」


何度同じ光景を目にしただろうか。同期、先輩、部下。立場はそれぞれだけれども、結果は例に漏れず後悔を抱かせるものだった。 庇われるような人間では無いと言うのに、みな揃って同じ行動をとる。


――やめて、ください。


巨人の手に捕まる。噛みちぎられる。全身の骨を折られる。踏み潰される。


――もう見たくは、ないのに。


血が吹き出る。肉が、臓物が、骨が、脳髄が、心臓が飛び散る。絶望に見開かれた瞳が、私を捉える。

何度同じ光景を夢に見ただろうか。幾度となく繰り返される場面。まるで走馬灯のように過ぎる記憶。 その度に私は、何度振り返りそうになったのだろうか。それでも尚振り返ることを許さず前へ進み続けたこの意志が、無駄ではないと信じる他ないというのに、記憶は私の肩を引く事をやめない。


「自分を守れない奴が他人を守れるとは……思い上がりも甚だしい」


はたと、瞠目する。


「お前がみっともねぇ飛び方しやがるから危険に晒される。そんなお前を皆は――守ろうとしちまうんだろうよ」


視界が、ぶれる。まるで殴られたかのような錯覚を起こしては、体勢を崩しそうになる体を既のところで踏み堪えた。


「お前が守りたいと思う気持ちと同じものだ。こればっかりは仕方ねぇと一番良く分かっているのは誰でもない、お前自身だろうが」


リヴァイの言葉は私がいままで積み上げてきたものを壊すでもなく、塗り替えていく。 考えてもみなかった。庇われたくないという思いだけが先走り見えていなかったのだ。 同じものでも違う視点から見れば世界はこんなにも色を変え、固定観念を覆すほどのものとなりうる事を。

私が今、ここに居る理由。ここで生き続けられている理由。それは何も残酷な事実だけで形成されているわけではないのだと。

ただ庇って死んだのではなく、守ってくれたのだ。私を大切だと思うから。私が皆を大切だと思うように。 私がみんなを守りたいと思うように、みんなも私を守りたいと思ったからこそ、私はこうして生きている。死なずに生きてこられたのだ。


―― “ 自分を大切にしてくれ。”


いつか、友人のその言葉の意味を理解出来るだろうか。大切なみんなが生かしてくれたこの命を。大切に出来る日が来るのだろうか。


「……頑張ります」

「次の壁外調査で出来てなかったら説教だな」

「え、マジで」

「えらくマジだ」

「なんてこったい」


こうして来る壁外調査の日、私は無謀な真似をせず逃げる事を選んだのだが、正解とは言い難かったようで結局お説教を頂戴したというわけである。

――果たして自分を守れない人間が他人を守る事が出来るのか。私は言葉の意味を理解できるのか。それはまた別のお話。




END.








ATOGAKI

久しぶりの中編、ここに完結。お付き合いいただき誠に感謝ですなう。なんか全体的に繋がっていない気がしますがコンセプトが同じなはず?そして長いわりに何も解決していない?そんな馬鹿な。

最大の誤算。それは何を隠そうまさかのオルオさんじゅうきゅうさい攻略。正直当初の予定では1ミリたりとも考えてもいなかったです。 でもいつかは、とは思っていたので結果オーライ。即ち嬉しい誤算というわけで。完全に攻略出来たわけではないのですが。

同期の死際などの話はエルヴィン団長との過去話で出てきます。いつupできるのやら。番外的なものなのですが。 最後のシーンは『彼女の思い:確認編』の冒頭の続きです。


■悪運について ※ここ重要
最も辞書で検索してはいけないワードです。振り返らないシリーズでは正しい使い方をしておりません。お気づきかとは思いますが一応。 運が良い、ってどストレートに書くのを躊躇った挙句の処置です。ちょっと皮肉を込める感じにしたわけです。なので悪運が強い=運が良いと解釈していただければ。 弄れている主人公ゆえに悪運と言ってしまうのでしょう。そう言う事にしておきましょうそうしましょう。

悪運を悪い意味で捉える事も出来れば、『なんでこうも変に運が良いんだろうね、HAHAHA.』みたいな。つくづく可笑しいくらいの運の良さだぜ。みたいな。皮肉を込めた結果。 説明の今更感な。それな。それを言っちゃお終いだっぜ。すみませんでした。

オヤッサンのお店は壁内のどこあるのか考えてないです。『ここ』というのは『壁の中』を指しています。蛇足。