She never looks back
― 彼女の想い閑話休題 ―
■act:プロローグ 雪降る夜に
早めに切り上げて正解だった。信ぴょう性など無いと自負している自己流の天気予測が、こうも役に立つ日が来るとは思わなんだ。
「こんな雪の日は、オムオムが食べたくなるねぇ……」
辻馬車の待合室で窓辺に肘を突きながら人知れずぼやく。客足も疎らになった室内では、ストーブの薪が小さく爆ぜていた。
「あら坊や、こんな夜遅くにどこへ行くのかしら?」
向かいに座っていたパーティ帰りだろう着飾る貴婦人。視線を投げれば朗らかに微笑み、の顔を伺う。
背後では夫であろう紳士が受付の人間と何かを話していた。
「今日は友達の誕生日パーティだったんだ。遊びすぎて遅くなっちゃったんだけど、今から帰るとこさ」
「あら、そうなの。ひとりで偉いわね。私たちも帰るところなのよ。お互い早く帰って休みたいわね」
「雪も降ってきたし、積もらないうちに帰れるといいんだけど……」
少し目を離した隙に雪は大粒となり、落ちた先の水たまりに溶けていく。外はさぞかし寒いのだろう。
結露する窓ガラスに指を這わせても直ぐに曇ってしまったのがその証拠だ。
「馬車が来た。さぁ行こう」
「そうね。次からは御者を雇いましょう? こんな所で待たされるのはもう御免だわ……じゃあね坊や。気をつけて帰るのよ」
「さようなら。貴方がたもお気をつけて」
ふたりを見送り、次いで受付に目をやれば気まずそうに俯く係員が居る。
文句は言うまい。よくある事だ。多めにチップを握らせれば順番など意味を成さなくなるなぞ。
これで5人目だ。己もチップを出そうか逡巡するも、直ぐに経費の無駄遣いはよくないとその考えを振り払った。
「ハァ……着く頃には流石に寝てるだろうねぇ。こんな事なら予約でもしておけば良かったかな」
まぁいいか。睡眠時間は削られるが、急ぐ旅ではないのだ。暫くは雪も積もらないだろうし、気にせず時の流れに身を任せてゆっくり帰ろう。
どうせ待っている人間なぞ居やしないのだから。
「いや、尊き我が聖域と……冷たいシーツが私を待っている。なんつって」
fin.
■act:01 詳細に語るまでもない四方山話と彼女は言う
――じくり、と痛みと熱をもつ脇腹に目を向けた。
「……いくら慣れているとしても痛いものは、痛い」
シャツを捲ればその箇所は内出血を起こし、混濁した紫に変色している。
だが冷やすことは躊躇われた。腹部を冷やすとロクなことがない。それに。
「見つかれば心配される、かもしれない。そしたらきっと、迷惑をかける――」
今年で齢7歳になろうとしている少女は、外見らしからぬ思考で冷静に状況を判断する。
いくら親戚と言えど、厄介な存在に変わりがない己。そんな己がこれしきの事で騒ぎ立てればどうなるか――考えるまでもない。
両親が他界し、親戚に引き取られてから2年弱。元より表情の変化が希薄な少女だったが、それにしても今の面貌は限りなく無。
言葉とは裏腹に後ろめたさや不安といった感情などひと欠片も見当たらない、まるで精巧に作られた人形のようだった。
少女は決して、感情を表に出さない人間ではないというのにもかかわらず。
ただただ光の宿らない瞳で患部を見つめながら、この痛みを知られずに過ごすにはどうしたらいいか考えるのだ。
痛いからといって表情に出るでもなし、呼吸は乱れるだろうがさしたる問題はなく。
その肢体に打身は腹部だけでは留まらず、いたる箇所に点在している。
決して服の外から見える場所にはつけられない痣。それは巧妙に、狡猾に。
少女は “痛めつけられること” に慣れていた。しかし、“痛み” に慣れてはいなかった。
されど涙は出ない。まるで枯渇していると言わんばかりに。ないし涙器など2年前に失われたと言わんばかりに。
――泣かないからこそ、加減の基準値が麻痺しているのだろう。
そこに限度はなく、負の感情を刻み付けるように、焼き付けるように――優越感を求め貪欲に啜るように際限なく振るわれる暴力。
何度も、幾度も、幾星霜、何遍でも。止まない痛みに体は痙攣し、意識は朦朧とする。
毎夜毎夜それは続いた。加減無き虐待が。故に少女の全身は、ボロボロだった。
「明日も、朝の仕込みがある……早くっ、寝なくちゃ……っ――」
無機質のような、暖かいような、上等なベッドに横たわり息を吐く。されどいくら柔らかかろうが、患部に接する部分は痛みを伴う。
この時ばかりは温もりなど無に等しい冷たいシーツの感覚が有難かった。
――戻りたい。両親の暖かなかいなに抱かれ、深く、安堵するあの頃に。
「……お父、さん……お母、さん――…………」
少女は夢を見ない。冷たい布団の中で、両親が二度と帰らないのだと知ったあの日から。
全て失われたと理解した瞬間から、幸福を幸福と知らなかったのだと思い知らされたあの夜から。
戻りたいと望みながら彼女の記憶からは、既に温もりも安堵も失われていた。
2年という短いようで長い年月は、7歳の少女の記憶から夢を見せる材料を欠落させていったのだ。
もはや寂しいと手を伸ばすことも、悲しいと縋ることも、辛いと泣くことも出来ない。
どんなに上質なベッドで眠ることが出来たとしても、雨風をしのげる屋根の下で暮らそうとも、死に遠い場所であろうとも、少女はまさしく――不幸だった。
して、何故にこのような状態になってしまったのか。
少女はただ、存在意義を見出したかっただけだ。
いくら血のつながりがあろうとも大して会ったこともない親戚の住む肩身の狭い場所で。
剰え全員が働いているその中で、己も何かしなくてはと焦燥を感じながら、居場所を見出したかっただけなのだ。
恐らく、祖父は少女――孫の “引け目” を感じ取っていた。
「今日からここに住むんだよ」優しく迎え入れる妻の言葉に少女が頷こうとも、その心の内は戸惑いと疎外感に苛まれて居るに違いない。
そう危惧したからこそ、5歳という幼さにもかかわらず包丁を握らせ、仕事を与えたのだろう。
物理的なものではなく、精神的な居場所を作ってあげたかったが為に。
他の者達と同調行動を行わせ少しでも早く打ち解けられれば、引け目を感じることもなくなるだろうと。
己は役に立つ人間なのだと、ここに居て良いのだと自信をつけてあげたかったのだ。
それは紛うことななき不器用な祖父なりの気遣い、優しさだった。
「ここに住む以上、皆と同じように働いてもらう。働かざるもの食うべからず、タダ飯食らいに居場所は無いと心得よ」
憂慮ゆえの、厳しさ。少女は度々家を空ける両親に代わり家事全般はこなせる。だが祖父は郷に入りては郷に従え、お前に望むのはレストランにおける在り方なのだと言って聞かせた。
相続争いの渦中にいたカルロも、もうひとりのいとこでさえこのような幼い頃から仕込んではいない。
だがこれが少女の為にできる最たる方法なのだと信じて疑わず、全てを叩き込んだ。
それが周囲には期待となって映った。料理長は長男の娘を向かい入れ、継がせる気であると。
やはり相続は料理長の第一子、またはその後継に与えるのが筋であり願望なのだ、と。
突如として現れた秘蔵っ子と裏で囁かれ時期後継者だと暗黙の了解になっていく中で、飲み込みが早く才能を開花させていく少女自身によってその噂は真実味を帯び、確信へと至らしめるのにそう時間はかからなかった。
――褒められたかった。認められたかった。居場所が、欲しかった。
腕を仕込まれ技術を叩き込まれ、全てを己のものにし遺憾無く発揮させていく少女。
それが逆に反感を買うものなのだと気付くまで時間を要した少女は、やはり幼すぎたのだ。
全ては後の祭り。祖父の気遣いも裏目になり反勢力は行動を起こす。
少女の出現により相続最有力候補から除外されたと思われた次男夫婦ではない。
もっとも後継から遠かった三男夫婦――後のイカレポンチと呼ばれるその人物たちだった。
彼らは相続できない鬱憤の矛先を少女に向け発散させたのだ。
元より後継から遠かった上に、これ以上脅威を増やしてなるものかと。
驚く程才能に溢れた少女は、彼らにとって驚異に映ったことだろう。己らの息子が不出来なことも相まって、焦燥は加速する。
――憎い。憎い。憎い。多彩な才能に恵まれ、期待を一身に受けるその生が、全てが、憎くて堪らない。
幼き弱者への牽制――否、才能多き強者への妬み。それが全てだった。
――彼らの役に立つのならば、それはそれでいいかもしれない。
少女は徐に瞼を閉じる。憂さ晴らしの捌け口として存在するのも悪くはない。そう考え、次の瞬間ふと、思い至る。
「……それだけじゃ、存在意義には為りえないのでは」
少女が願う真の存在意義とは。言うまでもない、己は “この場所” に居るために役に立たなければならないのだ。
それは彼らの捌け口という “些細な場所” を指しているのではなく、レストランという根源における意義。
小さな少女には大きく見えているであろう立派でいて偉大な場所。己を受け入れてくれた人たちが守る、言うなれば聖域その場所こそに役立たなければならないのだと。
幼いながらに物事の真髄を確と理解し、実行に移すその姿はどこまでも健気であり、同時に両親によく似ていた。
故に誇るべき意志と絶え間ない努力は功を奏し、少女は順調にその願いを叶えていくのだ。
「――お嬢ちゃん、どうも」
だが。大きなレストランの片隅で行われる行為に屈することなく存在意義を、居場所を見出す為に挑み続けた結果、心無き思惑に再三半弄されることとなる。
fin.
(あの日から布団が冷たい)
■act:02 研究の虫と彼女の秘め事
人気の失せた真夜中の食堂舎にて。
「気が効くし、料理も上手いし、紅茶は天下一品、どれをとっても最高だよ君は。男の胃袋をわしづかんで根こそぎもぎ取れるだろうね。きっと良い嫁になる!」
カウンターに腰掛けるハンジは頬杖をそのままに、調理場を見遣り殺し文句を言い放つ。
嫌味ひとつ無いその言葉が、フライパンを振るう彼女の逆燐に触れると知りつつも、気持ちいい程堂々と言い切るのだ。
「もぎたて胃袋で焼肉パーリィなにそれ怖い。カニバリズムの話は勘弁して……」
褒め讃えた筈のそれは当然の如くの発言によって一蹴されるとは言うに及ばずである。
「物理的な方向に持っていく君の思考こそ勘弁して欲しいね」
「どう考えても言い方に問題があると私は思う」
「わざとだよ?」
「知ってた」
「とまぁ、グロテスクな表現しちゃうほど、君の器量の良さが素晴らしいって言いたかったんだ」
「お褒めに預かり光栄です……じゃなくてハンジ、勘違いしないで。私のコレは決して “家庭的” じゃあない」
「言うと思った。そうだね、君の腕前はどこからどう見ても “職人” のそれだ。職業病と言っても過言じゃない」
「何故わざわざ分かりきった事を言ったのか……そんなに手元が狂う事をご所望か」
「失敗しようが特別な愛情を注いでくれるなら喜んで食べるさ」
「もえもえにゃんにゃん愛情ちゅ〜う〜にゅ〜う。これで馬糞入り蛆虫ご飯が完成したにゃん」
「相変わらずの棒読みだけどそれでも構わない、私はの手料理が食べたかったんだ……!」
「ハァ……極々普通の炒めもの、お望み通り愛情は入れておいた。味わって食すといい」
待ってましたと言わんばかりに匙を手に取り、かき込んでいく姿を横目には、調理器具たちを桶に沈めた。
「ふぉ、どぅしたのさ? んぐっ……そんな虫に食われて “しおしお” になったキャベツみたいな顔してもぐもぐ」
「どんな顔なのそれ。それよりも咀嚼しながら喋るんじゃあない行儀が悪い」
「うっんあ〜!……君の目の前でマナーを失するのはタブーだったね。ごめんごめん。あまりにも “しおキャベツ” になってたからさ」
「略すんじゃあない。おつまみか私は」
「それで? 何をそんなに生ゴミ一歩手前の顔になってるのさ?」
「とうとう廃棄処分へ……まったく、 “とても人前に出られたものじゃない顔” になってるとストレートに言って欲しいねぇ」
「流石の君も傷つくかと思って」
「生ゴミよりかはマシかと」
「それもそうだね」
ふぅ、と一息ついてから調理台に寄りかかるの顔は、やはりどこか優れない。
決して失礼な発言に傷ついているわけではないが、ハンジには心当たりがある。
どうしたのさ。素知らぬ顔で問いかけるように視線を向ければ、そこはかとなく自嘲気味には口を開いた。
「 “愛情” なんて……どの口が言うのだろうと思って」
ハンジは知っていた。に料理関連の話は逆鱗に触れるわけではないと。
「腕試しがしたい、評価が欲しい、認められたい、褒められたい……私の料理にはそういった “願望” しか入っていないんだよねぇ」
ただただ幼少期に思い馳せ、懐古しては恥じらうのだ、と。
「君は向上心が旺盛なんだね」
「その発想は無かった」
だからこそ伏し目がちに頬を掻く仕草を微笑ましく眺めては抑えきれずに笑声を漏らす。
「何事も前向きに考えないと、だよ、」
若き日の過ち、子供ながらの弱さ、葛藤、黒歴史。それらを思い出しているとは想像に難くない。
原体験そのひとつ。けれどもそれ以上に、大切な感情が心の奥底からにじみ出ている姿がこの上なく――
「なに。そんなにニヤニヤして気持ちが悪いよ、ハンジ」
――嬉しくて。
「あっはっは。そう睨まないでくれ、。深い意味はないよ。ただ……」
思わず素直な気持ちを口に出すのだ。もっともっと表情豊かなを見たいが為に。
己がそれを引き出しているという喜びをもっともっと実感したいが為に。それより何よりも。
「君が楽しそうにしている姿が、好きなんだ」
fin.
(こっそりと感情の欠片を拾ってポケットに仕舞う。君の心は頂いたぜ)
■act:03 さぁ命を込めて、うんざりする雑音にさよならだ
絶え間なく女の叫び声が聞こえる。とめどない鈍く何かを殴る音がする。
開け放たれた扉の影に身を潜める何者かは、下卑た男どもの笑声を聞きながら思案に暮れる。
「現状維持が暫定処置として適正、と……口で言うのは簡単なのだけれども」
限りなく客観的に、合理的に。状況を判断すればこそマニュアルに従いそれを実行に移すべきだ。
慎重を要求される局面ならば言うに及ばず、予期せぬ事態が差し迫った状況なら尚の事。
「けれど、暫定は暫定。正式決定が下されるまではいくらでも変わる可能性はある、というわけで」
しかし、何者かは己の行動理念に基づく判断を下す。迷うことなく、それこそが己のセオリーと言わんばかりに。
「出来る事をやらないのは、出来ないよりも怠慢が過ぎる。私は私なりの最善を尽くすのみ」
それが己が任務を託されている理由。期待されている理由。結果だけを求められている理由に他ならない。
つまり、結果が彼の満足に至るものであれば、過程は問われないというわけで。
「度が過ぎる放任主義もどうかと思う。これじゃあ『好きに動け』と自由にさせていると見せかけたただの放置プレイだよねぇ……いつものことか」
何者かは彼が無責任な人間では無いと知っている。命じた任務における思考を放棄しているわけでもない。
彼もまた、己のセオリーを貫いているだけだ。最善を尽くしているだけなのだ。
詳細に指示を与えずとも望み通りの結果を持ち帰ってくる何者かへ、最も適切な手段を用いているだけで。
彼の判断に間違いは無い。何故ならば、何者かが彼の総ての判断を正解にするからだ。例えそれが不正解だったとしても、構わず身を呈して。
無論それは、何者かが出来る範囲での話だが。
「やったろうじゃないですか……ご期待に応えて、ね」
吐き気をもよおす掃き溜めで、性根の腐った性悪に。人の皮を被ったケダモノと、神出鬼没の何者かが。命ずられるがままに敵と相対する。
「人質は無事でこそ人質であって、キズモノにするなぞ美学に反する……そうは思いませんか」
銃口で獲物を捉えた瞬間が、何よりも重く。引き金を絞る瞬間が、何よりも――
「つまり暴力ダメ、ゼッタイです」
――何よりも命懸け。故に “生” を実感する。
「……無闇矢鱈に殺すのも、美学に反するということで何卒」
室内に轟く銃声音。同時に鼓膜を劈く衝撃。慣れたものだ。目の前で死にゆく断末魔の叫びよりかは、ずっといい。
――任務が終わる。人質と犯人を依頼主に引き渡し何者かは小ぶりのトランク片手に夜の街路を歩く。
雨具に打ち付ける雨、肩から全身をも濡らすそれに辟易しては辻馬車の待合所へひた急ぐ。
「それにしても遠い……雪に変わる前に着ければいいけれど……」
目深に被るフードから覗き見た空はどこまでも暗く、重く。どこからか、硝煙の匂いが鼻を突く気がした。
fin.
(込めた命の欠片が燃えた残香を洗い流す)
■act:04 愛情と嫌悪は紙一重
ただの暴力には抗わない。なんの感慨も浮かばない。
命の危険がない限りは抵抗するのも億劫だ。それが己の心を守る術なのだと彼女は考える。
――この人の振るう暴力には、必ず強い想いが存在していた。
初対面時は、仲間が殺られた敵意と怒りから。
入団してからは、警戒とやはり怒りから。
『直接体に叩き込んでやるから全身で感じろ』
時を過ごしてからそれは、きっと。
「もっと――殴ってもいいのですよ」
「は……お前は寛大だマゾヒストだと思っていたがここまでとはな……変態である流石の俺も引いちまっただろうが」
「愛のある暴力ならいくらでも受け止める所存」
叱る《愛情》と怒る《嫌悪》の違いは大きい。と彼女はかく語る。
――この人が暴力を振るう時は、例に漏れず誰かの為だった。
少なくとも、彼女と相対してから現在までは。もしかしたら預かり知らぬ所では憂さ晴らしに当たり散らしていたかもしれないが。
しかしそのような姿はお世辞なしに想像できない、とは正真正銘の本音である。
――粗暴とはいうものの見た目によらず鷹揚というか、落ち着いているなぁと思う。
粗野な口の悪さは扠置いて。手当たり次第に実力行使に訴えることはしない彼の姿勢は嫌いではなかった。
口では脅しまがいのことを言うが、それを実行した事はあっただろうか。乱暴はされた事はあるも、暴力とまではいかない程度で。
「俺だって暴力を振るいたくはねぇ……すまない、これも愛情だ。お前の為なんだ」
「言い分がDV男のそれだよ」
「冗談だ」
「はいはい」
「なぁ、よ……俺はそんなにお前を痛めつけてきたのか?」
「最初の頃は……敵意剥き出しでまぁ……確かそれ以降は殴る蹴るの暴力ではなく、掴む手に力を込める程度のものだと記憶している。ゲンコツはその限りではない」
「最初の頃はいくら殴ろうとしても避けやがるからな……早々に諦めた覚えがある」
「命の危険を察して反射的に、つい。でも何発かは頂戴したよ。対人格闘の訓練はその限りではない」
「当然だ。本気の攻撃をそう易々と避けられてたまるか」
「じゃあ入団してから今に至るまでの喧嘩も本気ではなかったと……」
「斬り合いも本当に斬っちまったら懲罰房行きだからな。それに……俺はそこまで暴力的な人間じゃねぇ。必要に迫られなければの話だが」
「地下街時代ならともかく、兵団内でそんな暴れ馬していたら大問題だしねぇ……火消しするエルヴィン団長の頭皮を心配するレベル」
「お前のその心優しい言葉は一文字一句正確に伝えておいてやるよ」
「ありがた迷惑ここに極めり」
決して感情の起伏が穏やかなわけではないが、無闇矢鱈に手や足へその衝動を連動させることはしない。
こと大事な局面では尚の事。戦いにおける作戦中に暴れまわるのは以ての外、手が出るとしたらそれは相手を思いやっての行動だ。
常に抑制された感情は冷静と名状しても良いものか悩むところだが、的確に現状を把握し実行に移せるその思考は見習うべき特性で。
恐らく特筆した能力を有するが故に、鍛え上げられたその体で攻撃をしてしまえば、洒落にならないと自覚しているからこその抑制なのだろう。
詰まるところ、それを発揮するタイミングを確と把握していなければ為せない業である。手心を加えるのもお手の物だ。
感情任せにその拳が、おみ足が振るわれればただでは済むまい。本気で痛めつけようとするならば骨の1本や2本3本、それ以上も覚悟せねばなるまいて。
もし彼が頭のトチ狂った愉快犯のような人物であったら脅威どころの話ではなく。なんだか命拾いした気分である。否、実際に命拾いした場面はめっちゃ多い。
「私は今後一切、貴方の敵にはならないと約束しよう」
「……お前が敵にならないよう努めたとしても、俺が敵に回る可能性は無きにしも非ずだが」
「いざという時はお構いなく」
「どうだかな……想像がつかん」
「思い出すことは出来るでしょ」
「昔の話だ。ありゃあ仲間と言うよりか、互いの利害が一致して手を組んでいたってのが実際のところだ」
「そう」
「それに……例えば、お前が誰かを殺す時は必ず何か理由がある時だろう。従ってまずは敵意を向ける前に問い詰める」
「言わなかったらどうするの」
「…………いちから総て言わなきゃならねぇのか?」
「ここは恥ずかしがる場面ではないと思うのだけれども」
恥ずかしがってねぇよ。逸らされた視線の先で空虚を捉えている彼が、お世辞なしに先の粗暴だとか洒落にならないだとか思わせるような人間には見えなかった。
「お前を信じている。……これで満足か」
しかし、言葉に真実味を持たせる為なのか、信憑性を少しでも伝えたかったからなのか、その真意は明らかではないものの、空虚から戻ってきた視線を直に受けた彼女は肯定するのだ。
リヴァイという人間は、やはり信頼に値する偉大な存在だ、と。粗暴でも非情でも、誰かの為にどのような形であれ行動出来る彼は、この上なく尊い。
――まったく恐れ入る。自分が相手にされている事が不思議に思える程に。
これは謙虚でもなんでもない。ただの事実だ。人間に優劣を当てはめるのは論外だと思ってはいるが、それでも人間性に問題のある己が気後れせざるを得ないリヴァイという存在が事実を思い知らせた。
―― “お前の為なんだ” 。
本心であれ冗談であれ、その言葉は彼女にとって受け取るには大き過ぎて。
―― “お前を信じている” 。
意図的に引き出したにもかかわらず差し出された身に余る信頼は、受け取るにはあまりにも勿体無くて。
「取り敢えず一発殴って欲しい」
「お前は肉体言語じゃなきゃ満足出来ねぇのか?」
戸惑い余裕を失った彼女は暴力を乞うのであった。流石の変態も目が点になったとは言うに及ばずである。
「あ、あまりにも胸がいっぱいで……目を覚まさせて欲しいのだよ」
「……そのまま覚めずにいろ。夢の中に、持っていけ」
恥ずかしがってんのはお前の方じゃねぇか。決して口に出される事のなかったツッコミは、別の言葉となって贈られる。
どうか魘されることのないように。胸がいっぱいになるほど心に響いたそれと共に眠れとあやす様に。
彼女は名状する事はないのだろうけれど、感じたその気持ちは確かに――。
fin.
(簡単に表現できないくらいお前にとって重いものだろうとも俺は、それを与え続けるのだろう)
■act:05 腹の底が知れない男は試すように彼女に身を委ねる
静寂が支配する真夜中。任務を終え報告書を持ち団長執務室へ赴いたは、主の不在を認めると机上にこれみよがしに置かれた紙切れを手にとった。
『起こしてくれて構わない』
明らかにへ宛てた書置きだ。詰まるところ出迎えもせず寝ていて申し訳ないが叩き起こして報告を聞かせてくれ、と。
取り急ぎ起こしてまで聞かせるような内容でもないのだが、働いている者を差し置いて睡眠をとっているという事実が心苦しいのだろう、そんなお優しい団長様のお望み通りにしてやろうじゃないか。
自分も疲れているだろうに、涙なくしては語れぬ篤厚な姿勢は敬愛を抱かずにはいられまい。は存分に億劫さを全面に押し出しては私室へ通ずる扉をノックするのである。
起こさないで済むのならこのまま自室に帰りたい、と切実なぼやきを押しとどめながら。
「エルヴィン団長、報告書をお持ちしました」
声を掛けるも返事が聞こえてくる気配は皆無。やれやれ。遠慮なくノブを捻り扉を開け放つ。
「……あぁ、か……お帰り……今起きる……」
気配で意識を浮上させたのだろう、うずめた枕から顔を僅かに覗かせ、体は依然うつ伏せのまま彼は口を開く。その声音は掠れていて酷く扇情的な色気を包含していた。
しかしながらは極々普段通りに接するのだ。というより何も思ってはいない。何故ならこのようなシチュエーションは初めてではなく、無論その初めて相対した時も無反応だった。
「ただいま帰還しました。そのままで構いません。報告を終えたら早急に引き上げますので」
布団から覗く肩は無防備。寒さが身にしみる季節だというのにいい加減服を着て欲しいものだ。これだから風邪を引いて巡業賭博場に行けなかったのでないのか。
上官のある意味の悪癖に呆れる他ない。の前では大人の色気も無に帰すのである。肉体美はその限りではない。
「今日は特に冷えるな……」
「絶対にツッコミませんからね」
「雪は大丈夫だったかな」
「えぇ、まぁ。積もる前に引き上げたので。朝礼をする頃には一面の銀世界になっているかと」
「君の自己流天気予報では、雪はやむのか」
「自信はありませんが、晴れると予測します」
「そうか……それは、良いことを聞いた……な…………」
吐息混じりの相槌を打つエルヴィンは、何かに思い馳せるように目を細め――再び枕に顔をうずめた。
起き上がるでもなく二度寝へと洒落こもうとする姿を見届けたは何を思うでもなく、静かにその場を後にする。
――あれは相当、お疲れの様子。
いつもならば起き上がりガウンを羽織っては報告を聞く姿勢を整えるというのに、今日は顔と口しか動かしていなかった。
気を許されていると捉えるべきか、干物女の存在自体意に介されていないと捉えるべきか。
前者か後者かそのどちらでもなくても、なんでもいい。万年繁忙期よろしく些か働き過ぎな上官を慮りながら、報告書の束を執務机に置き退出するであった。
fin.
(馬車馬もその主もお互いに対して清々しい程に実直なのだ)
■act:06 蒼穹に燃ゆる
生い茂る常緑樹の葉よりも深い緑のマントがはためく馬上。手綱を握る調査兵は壁を目指してひた駆ける。
此度の遠征における構成を考慮するにあたり、共に壁外へ出ること叶わず、されどこれも立派な勤めとし待ち続ける待機組の下へ。
「――大変恐縮ではありますが現時点での作戦の概要を教えていただきたい。同時に納得できる理由の提示を求めます」
一足先にトロスト区へ帰還していた早馬ことひとりの調査兵は、壁上にて駐屯兵団の班長と思しき兵士と口論を繰り広げていた。
口論といっても感情任せに怒鳴ることはない。しかし普段から冷静沈着の筈の人物が心なしか覇気を込め、相手に詰め寄る姿は珍しく。フードを被っていてもその違和感は明白で。
周囲に存在するふたつの組織の極僅かな兵士達が固唾を飲んで見守る中、己より随分と背の高い班長に負けず劣らずな威圧感を発しながら小柄のその人物――は尚も言葉を重ねた。
「信煙弾は見えている筈です。にも関わらず何故静観を貫くばかりか調査兵の待機組さえ足止めを? 是非ともその真意をお聞かせ願いたい」
「上からの命令だ。駐屯兵団の精鋭部隊は緊急の召集で不在、そんな状況下で巨人の討伐など出来ん!」
「だからと言って待機組までも規制する必要があると? 一体どなたの命令です、私が直談判しますのでお目通り願います」
「数少ない調査兵団の待機組だけでは心許ない。こちらの精鋭部隊が戻るまで待ってもらっているだけだ。
これは被害を最小限に抑えようと考慮した隊長の判断、いち調査兵の早馬が覆せる命令ではない! よって直談判させるまでもない!!」
「どうせ責任を問われる事を回避したいだけでしょうに……こうしている内にも本隊は死に物狂いで壁に向かっているのです。
それなのに貴方がたは連戦続きで疲弊している者たちだけで何とかしろ、と仰るのです? 勝手に壁外へ行ったのだから尻拭いも自分たちでやれ、と……?」
「そうは言っていない! 暫くすれば戦力が整う、それまで待てと言っているんだ!!」
「それでは遅すぎると何故分からないのです!? 四の五の言わずありがた迷惑な判断を下したその隊長とやらを出してください。今すぐに……!」
「何度も言わせるな!! 貴様、いい加減に口を慎まないと軍令違反で逮捕するぞ!? 顔もみせないで、不敬であろう!!」
「なんでもかんでも直ぐに捕らえればいいと思いやがってからに、なんと芸の無い……分かりました。我々は調査兵団です。貴方がた駐屯兵の組織に属してはおりません。
故に他の兵団に処罰される謂れは無いばかりか “己が属する兵団” の規律に従い、待機組の指揮権を行使します」
「何を……ただの早馬風情がそんな権限を持っているわけ――」
お話にならない。埒が明かない押し問答に堪忍袋の緒が切れたと言わんばかりには駐屯兵に背を向け、荘重に剣を抜く。
その姿に察したのだろう、待機組も倣い気を引き締めた。そして彼女は被っていたフードを引き下げ、姿勢正しく威儀を纏い宣言するのだ。
「今この時をもって、待機組の指揮は単独部隊長である私が執ります。離反に対する責は問いません。従える者は私に続いてください!」
その場に存在する団員に冷酷人間へ向ける反感の意志は無く、あるのはただ指揮官に対する信認のみ。
釈然としない命令に鬱憤が溜まっていたのはなにもだけではない。待機組とて己の使命を全う出来ず業を煮やすとしていたのだ。
それを打開してみせた彼女に、賛同せず異を唱えるなどするはずがなかった。
「……それでは本隊を出迎えましょう。作戦名は “命大事に目指せ安心安全帰還への道作り” です」
真摯な瞳を見返し各々の意志を確と確認したは、壁上の縁へ進み出ると眼下の巨人を視認し――
「さん……ネーミングセンス、なさすぎです。冷酷人間の仮面が剥がれる寸前ですよ」
「モブリット君、ハンジの代わりとはいきませんが僭越ながら今回は私が君に命令を下します。遅れず着いてきてください」
「こと巨人討伐に関してスパルタな貴方の下で戦えるとは恐悦至極に存じます」
「心にもないことを言わせてしまって申し訳ない。行きますよ……!」
「はい!!」
――身を躍らせるのであった。無論、急場の部下を引き連れて。
「物陰に細心の注意を払ってください! ものの数分もしない内に本隊は旧市街地に到着します! それまでできる限りの討伐、並びに最優先事項として命大事に!!」
重力に抗うことなく降下する中、操作装置に指をかけながら指示を出し散開を命ずる。
次いでアンカーの射出音が同時にうなり、各々標的へと向かっていく。
待機組と言えどこれまで幾度の死線を潜ってきた歴戦の兵士だ。精鋭部隊が不在だろうとも遠慮はすまい。
大いにその実力を見せつけてやれ。最小限に抑えるとは言わない、元より被害なぞ出すつもりも毛頭ない。
生きて本隊を出迎え、共に帰るべき場所へ帰るのだ。
かような意志を掲げ指揮官となったの姿に、団員達は例に漏れず実力を遺憾無く発揮していく。
その勇姿はまさに歴戦の兵士そのものだ。己も負けてはいられまい。我さきにと躍り出る指揮官に続き巨人を掃討すべく猛威を奮う。
その甲斐あって瞬く間に周囲に存在していた巨人の影は、跡形無く消え失せていた。それと同時に本隊が目前へと迫るのである。
「ハァ……こう見えても、私だって疲れているのですよ……」
各地に散らばる急場の部下たちを横目に半壊する屋根に降り立ち、先程までの威勢はどうしたのか、疲弊を顕にするは人知れずぼやく。
気を抜いているわけではないのだが、少しくらい愚痴を零してもバチはあたるまい。
背後ではモブリットが困り顔のまま笑みを浮かべていた。
そんなふたりの下にひとりの調査兵がマントを翻しやって来た。
「そりゃあご苦労だったな。お陰で本隊はお前が抜けたあと、巨人に遭遇することなく帰って来れた」
言わずもがな本隊の先陣を切っていたリヴァイである。眼下の街路からは数多の馬を駆ける音が鳴り響き、待機組に帰還を知らせた。
「げっ、リヴァイ……お早い到着で」
「信煙弾を打ち上げてから暫く経つが、門も開いてなけりゃ巨人も健在、とくれば流石に不審に思う。お前を先に帰らせたにもかかわらず
何かトラブルでも起きてるんじゃねぇかと早めに馬を走らせたはいいが、瞬く間に討伐されていく様子を見て杞憂だったと思い直しこれでもゆっくり来たつもりだが」
「何故だろうか、その説明口調でさえ嫌味に聞こえる……なんとも不甲斐ない。私がもっと早く話に決着をつけていれば……」
「嫌味を言ったつもりはねぇが、詳しい事は後だ。それよりも開門を急げ。また湧いてくるぞ」
「……エルヴィン団長に壁上にお越しいただくよう伝えてください。こちらにも色々と込み入った事情がありまして」
「了解だ。早急に向かわせる。待機組への指示は何かあるか?」
「指揮権は今、勝手ながら私が預かっておりますが後は頼みます。と言っても特にすることもないでしょうし、待っている間にでもモブリット君に詳しい話を聞いてください」
「なるほどな……珍しくお前が指揮を執ってる理由と込み入った事情は手に余る程のものなのか」
「要約、駐屯兵団隊長絶対許さないウーマン」
「さっさと行け」
「はい」
――威厳もへったくれも無い。リヴァイを前にするとどうしてこうも情けなくなるのか。さっきまではとても格好良かったのに。
壁上へ向かっていく背中を見送りながら残されたモブリットは、同じく彼女の背中を見つめるリヴァイに事情を説明するため歩き出だすのだ。
「冷酷人間のままで感情を剥き出して言い合うさんの姿は初めて見ました」
「少しばかり気が急いていたようだな……身分を明かしちまって、今後の行動に支障が出なけりゃいいが……
恐らく待機組にモブリット、お前が居て少しばかり肩の力が抜けたんだろう。ひとりで突っ走らなくて何よりだ」
「買いかぶり過ぎです。むしろ誰も居ない方が、もっとスマートにことを運べたのでは……」
「愚痴をこぼすぐらいだ、さぞかし俺たちが思っている以上に疲れてる事だろうよ。そんな中で気心知れた人間が居た……十分負担は軽減された筈だ。
あいつはひとりだと無茶しやがる。俺たちの中の誰かが居てさえすりゃ無意識でも頼るからな。利用するとまでは言わねぇが、信頼し背中を預ける事はする。
つまり、いい意味での枷になったってことだ」
「そうだといいのですが……それが事実なら、光栄なことです。いえ、何でもありません。出過ぎたことを言いました」
暫く壁上を見上げていたリヴァイだが、漸くモブリットに向き直ったと思いきや、そこはかとなく瞳を剣呑に染め上げていたとはここだけの話。
彼も無意識なのだろう、嫉妬するとはとうとう末期である。困ったものです。
「取り敢えず、壁上に居た駐屯兵は極小数でしたから問題ないとは思いますが、今後は大事を取って早馬は控えたほうがいいかもしれませんね」
「チッ……単騎の早馬よりかは殿やらせた方が負担は少ないだろうが……あいつにしてみりゃどちらでも変わらん、か。それも踏まえてエルヴィンの野郎に報告しねぇとな」
「早くしないとまたひと悶着起きてしまいそうですしね……では早急に団長の下へ」
壁上ではまた何やら言い合いを繰り広げている様子が見て取れた。立体機動で門前に居るであろうエルヴィンの下へ向かいながら、事情を説明する。
「遅ぇと文句言われちまったら適わん。お前はエルヴィンと壁上に着いたらフォローに回れ。大方調査兵を早く中に入れようと躍起になってるだろうからな。俺は哨戒に出る」
「よろしくお願いします」
嫉妬する割には、自分は彼女の下へ行かないのだな、とモブリットは思った。その判断がへの負担軽減に繋がると分かっているのだろう。
何故なら未だ開門されない状況下、リヴァイが警戒にあたればまた巨人の脅威にさらされるかもしれないという不安も和らぐ。
即ち、信頼からくる心強さというものがうまれるのだ。
(まったく、嫉妬するまでもないじゃないですか……さんにとって貴方の存在は、誰よりも大きい)
悪気は無いのだろう。敵視もしていないに違いない。ただ反射的に、物言いたげな視線をモブリットに向けてしまっただけで。末期ここに極めりである。
そんなことなぞ露程も知らず先ほどと同様仲間の為に意欲を燃やしているであろうが居る壁を見上げれば、陽気な青空が雲間から顔を覗かせていた。
「既に下の問題には方がつきました。巨人が居ないのならば門を開けても問題は無い筈です。早急に開門の指示を――」
「分隊長、エルヴィン団長をお連れしました」
「……ありがとう、モブリット君。下の様子は」
「今リヴァイ兵長が警戒にあたっております。なので心配は不要かと……」
「そう……私の力が及ばないばかりに皆には負担を掛けた。後はエルヴィン団長にお任せしましょう」
――そんな事は無いです、貴方は十分役目を全うしました。そんな己の言葉は、心なしか肩を落とす彼女の助けに、少しはなれただろうか。
気を引き締め、敬礼でエルヴィンを出迎えたの横顔をそっと伺うモブリットは、フォローしろというリヴァイの言葉を脳内で反芻させた。
「遅れてすまない……フードはどうした、被らないと面が割れてしまう」
「謝罪は後ほど。モブリット君から聞き及んでいるかと存じますが色々とのっぴきならない事情が……」
「……私が話をつけよう。君も下で待機していてくれ」
「お手を煩わせてしまって申し訳ございません。お願いします」
不甲斐ない。消え入りそうな小さき声が耳に届く。の心の痛みは計り知れまい。
かくして暫くののち、開門に漕ぎ着けたエルヴィンの説得によって調査兵は本部へ帰還を無事に果たすことと相成る。
不完全燃焼といっても過言ではないは、普段通りフードを被って帰路についていたが、その姿はどこか頼りなく揺れていた。
fin.
(貴方の背中は眩しいけれど、儚く揺れる。まるで陽炎のように)
■act:06.5 羞恥に燃ゆる
「オイ、。この前待機組が言ってたぞ。『冷酷人間の判断には目を見張るものがある』ってな。指揮官に名乗り出る姿は格好良かったらしいじゃないか。俺も見たかったぜ」
「先輩……そんな大層なものではありませんが……オ褒メニ預カリ光栄デス」
「それと一緒に『作戦のネーミングセンスは壊滅的』だとか。一体どんな作戦名にしたんだ?」
「ふふん。耳の穴をかっぽじってよく聞くといい、この素晴らしき作戦名を……ズバリ『命大事に目指せ安心安全帰還への道作り』です」
「……前々から余計な事は口走るなと言って聞かせた筈なんだが……センス力が試される事柄に関して口を開くと冷酷人間の威厳が揺らぐ、なんてのは俺たちの間では有名な話でな?」
「知りませんよそんな話。まったく失礼な。いくら先輩だろうとも慰謝料を請求しますよ」
「これでもお前の事を思ってだな……」
「まぁ……忠告は受け取っておきますよ。お気遣い感謝します。まったく、誰から聞いたかは知りませんが余計なことを……」
「緊急の事態だったとは言え、お前の判断は正しかったよ。恐らくあのまま行動を起こさなきゃ本隊は無事では済まなかっただろうな。危うく混戦の中で力尽きるところだったぜ」
「思い返せば些か冷静ではなかったかもしれません……彼らの実力を疑っていたわけではありませんが、あのような無謀な策に出るとは私も精進が足りませんね」
「そんな事はねぇさ。自ら身分を明かすという危険を冒してまで打って出た結果は、褒めはするも糾弾する理由は無い」
「……お褒めに預かり光栄です。紅茶でもどうです? 今日は秘蔵の茶葉を使おうと思っていたところなのですよ」
「よしきた。ヨイショした甲斐があるってもんだぜ。こんなあからさまに態度が変わるとは、相変わらずちょろいなお前は」
「出涸らしで構いませんね」
「そんな恥じなさんな、冗談だっての」
「はいはい。皆して……私を煽てても何も出てきませんよ」
「そういう事にしておいてやるぜ」
fin.
(少しは元気出たかよ? まったく世話のかかる後輩だぜ)
■act:07 かの者よ。曇天の下、随意に誰を恋う
灰色の空を仰ぎ熱のこもる白練の息を吐いた。寒さ厳しい季節。上着の袖も届かぬ指先が外気に悴む。
――暫しの沈黙。静寂降る歩廊に佇み、リヴァイは耳鳴りの煩わしさに眉を顰めた。
「朝っぱらからシケてやがる……何処ぞの馬鹿みてぇなツラしやがって」
今にも降り出しそうな曇天。気温からみて雨のち雪といったところか、願わくば積もらなければいい。
せめて何処ぞの馬車馬が帰還するまでは。昨夜から姿が見えない者を思い浮かべて今一度息を吐く。
その横顔は如実に心境を表していた。
「……泣きっ面は、してねぇだろうがな」
そろそろ行くかと所用の存在を頭に浮かべながら歩みを再開すれば凍てついた風が身に沁みる。
早朝の冬空の下は澄み切った空気が流れるも、やはりどこか湿り気を帯びていて。
恐らく数時間も経たない内に降り出すのだろう。幸か不幸か己の予定は内務仕事中心だ。
それが少し、どっかの誰かさんに対して心苦しくも無性に――恋しくなった。
「まるで上の空だね。貴方らしくない。任務で本部を空けるのはいつもの事だろ? その度に必ず帰ってくるんだから気にせず大人しく良い子にして待ってなって」
ザアザアと耳障りだった雨音が気づかない内に静まり返った頃、無意識に窓の外に目を向けては指摘され。
「またか、リヴァイ……何度も言うが、大抵は時間通りに帰還するが極希にずれ込む時もある。従って断言は出来ない……あぁ、ついに雪に変わったのか」
せてめ目処さえ立っていれば心持ちも変わってくるのだが、そうは問屋が卸さず。
漠然とした時の中で待ち続け募る喪失感。雪は積もってしまっただろうか。
振り返り窓に映る己の顔を目にして漸く、日が暮れたのだと知る。
「――――……」
己は今、一体なんと口走ったのか。
「チッ……何ってツラだ……」
頭の中で繰り返し聞こえる己の声、情けのない表情を浮かべる顔。今一度舌打ちし総てを遮断するように、些か荒々しくカーテンを閉めるのであった――。
fin.
(見せられないと思う反面、見せつけても良いとせめぎ合う馬鹿げた思考。少しは待っている人間の気持ちを認識してもらわねばならん)
■act:08 待ち人来たる、待ち人現わる。
――それにしても寒い。どんなに鍛え上げられた体であろうとも寒いものは寒い。
温かみなぞ皆無な石造の廊下で、自室へと向う足取りは自然と早くなる。
エルヴィンのあられもない姿も然る事ながら心身共に冷え切ったは、熱湯を頭から被って強制的に温まりたいと切に乞う。
恐らく心の氷は暫く溶けそうにないが、せめて体だけでも。
――でも、ベッドも冷たいだろうし、湯冷めしそう。
どうやら己は心身共に温まることは叶わないらしい。なんて日だ。楽園はいづこ。
とは言うものの、いつものことで。暖をとる器具などあるわけもなく、兵士たるもの甘ったれるなと叱られてしまうだろう。
――慣れている筈なのに。どうしてこうも、求めてしまうのだろうか。
寒さなぞ慣れている。屋外でないだけ恵まれている。動けば体も温まると知っている。冬の壁外調査であろうとも支障ない。
そう、思うのだが。
帰巣本能か、無意識に己の執務室に到着したは扉の前で立ち止まった。
鍵は開いている。何故なら書類を取りに来る者が居ると事前に連絡を受けていたからだ。
故に鍵を取り出す必要もない。それでもは立ち止まったまま身動きひとつしなかった。
そこにあるのは、見る者を底冷えさせる程の眼光鋭き瞳。
まるで覗き込んだ井戸のような底の見えない深く昏い無を連想させる、混濁した彼女特有のそれがどこを見るでもなく冷たい空気に剥き出されているだけだった。
「……最悪だ」
自身を咎めるように、戒めるように。知らず知らずのうちに弱くなったと失望するように。
消え入りそうなその小さき声は、静かな夜に良く響いた。誰に聞こえるでもなく、けれど己の耳には嫌というほど入ってくる。
『――望んでいたのなら素直に縋れ、馬鹿が』
いつか聞いた言葉をかき消しながら。
♂♀
ベッドに横たわり、ランプの灯りを頼りに本を開いてから半刻。
興味もない画家の随筆。描かれた絵画は相変わらず理解不能、解説に目を通そうとも本人の想いとやらは一向に伝わってこない。
もしこの絵画の現物を見れば何かしらのメッセージを受け取る事が出来たかもしれない、とは思うもののやはりそんな気はしてこないというのが結論であった。
――まったく己は、一体全体何をしているのだろうか。
まさに不毛。理解の範疇を越える書物を読んだところで。いつ帰るかわからない人間を待ち続けたところで。
「……寒ぃな」
――それは体の事を指しているのだろうか。それとも。
衝動のままに本を閉じる。予想以上に大きな音が立った。気にするまい、どうせここには己しか居ないのだから。
次いで本を持つ手を横へ放る。――しまった。と、慌てるも誰も居ない事に安堵する。だから己しか居ないと認識していた筈で。
馬鹿馬鹿しい。もう片方の腕を顔に乗せた。冷え性でもない己のそれは熱を持っていたが、求めていたものはではなく。
「………………っ」
掻き立てられるように起き上がる。急かされるようにベッドから降りる。――導かれるかのように、歩き出す。
「世話のかかる女だ……」
どこへ。扉へ。動く様子もない気配のする方へ。さぞかし冷えている事だろう。仕方あるまい、暖代わりになってやる。
部屋は目と鼻の先だというのに何故入ってこないのか。そんな疑問は後回しだ。
リヴァイはただただ足早に、待ち望んでいた届け物が到着した待ち人のように、扉へ向かいドアノブに手を伸ばす。
待っていた。そうだ、己は待っていたのだ。素直に認めてやる。だから早く、早く帰って来い。渇望する想いを隠そうともせず扉を開け放った。
――刹那の攻防。伸ばした腕が受け流され、反射的に足を払う。出会い頭に一体何を。
自問自答するリヴァイは足払いによって無様にも床に横たわる小さな体を見下ろしては唖然と立ち尽くした。
「アイタタ……いきなりなんだと言うの……納得できる理由の開示を求む」
「……鍛錬がなってねぇな」
「心身共に疲弊してやっとの思いで憩いの自室まで帰って来れたと思いきや勝手に扉が開いて襲撃に遭うなんて一体誰が予想できると言うの」
「本当にすまなく思う」
「謝罪は結構。私が聞きたいのは理由」
徐に立ち上がり服についた埃を払うの表情には心なしか憤りが垣間見れた。当然である。
待て。違う。口を衝いて出そうになる言葉を必死に飲み込んだ。
――彼女は決して鍛錬が足りていないわけではない。少しばかり意識を遠ざけていたとはいえ、眼前に迫る手に気づきそれを反射的にも瞬時に受け流したのだ。
床に転がされたのはただリヴァイの戦闘力が彼女のそれを上回っていただけで。――否、“攻撃目的で手を伸ばされたのではない” と気付けなかったのは十分な落ち度と言えよう。
「……まぁ、大方の見当はつくけれども」
リヴァイよりも後ろめたそうに目を伏せる。不覚をとった事に対してではない。
何よりも落ち度と自覚するのは、目の前に存在する人間の正体を察することが出来なかった点だ。
「自覚してるならよかった。さっさとしろ、俺まで冷えちまう」
背を向け聖域へと戻っていくリヴァイを見つめる瞳には、先ほどとは打って変わって戸惑いの色が浮かぶ。
「何度も言わせるな……糞が詰まってるわけでもあるまいし、聞こえてんなら早急に寝る支度をしろ」
そう言い残してリヴァイは聖域へと姿を消す。やれやれ。いい加減従わなければ更に叱られてしまいそうだ。
よたり、と痛みの伴う足を半ば引きずるようにしてはあとに続く。心底気だるげに聖域へと足を踏み入れ扉を閉めれば、そこには。
「………………」
「せめて何か言え」
一体何度目だろう、我が物顔で聖域のベッドに寝転がるリヴァイとエンカウントするのは。
「ツッコミを入れる気力も失せるというもの」
「……まぁいい、ベッドは温めておいた。好きなタイミングで入れ」
「つまり、『冷たいシーツで湯冷めする心配は無いから安心しろ』、と」
「正解は『いいから早くしろ眠い』、だ」
「実にシンプルで結構」
熱いシャワーを浴び、エルヴィンの事を兎や角言えないであろう寒々しいいつもの寝巻きに着替え、濡れた髪を乾かしベッドに腰掛ける。
リヴァイは相も変わらずの我が物顔で寝転がり、壁側から動こうとはしない。けれども。
「お前はこっちだろうが」
手前に潜り込もうとした体は抱えられ、彼が今の今まで梃子でも動こうとしなかった壁側へと運ばれる。
次いで全身を包む温もり。寝床を1秒でも長くと温められていたのだと理解した瞬間、無性に泣きたくなった。
「……褒めてつかわす」
「ありがたき幸せ」
そんなことを素直に言えるはずもなく。素直に表に出せるわけもなく。
お互いに心の篭らない言葉ではあったが、それでいい。それで伝わるのだから何の問題もないのだ。
「会わない時でもなく、会って泣きっ面してんじゃねぇよ」
けれども、冷やかしては呆れて容認を暗に教えるリヴァイと。
「泣いていない。断じて泣いていない」
掘り下げるなと、敢えてスルーするのが暗黙の了解だというのに。頑なに否定しては暗に肯定を示すは。
「おっと……口に出してたか」
「えぇ、まぁ。普通に、しっかりと、心の声がダダ漏れだった」
「そうか。なら、お前も言ってみろ。俺は今どんな顔をしている?」
「『すごく会いたかったぜハニー』って顔をしているよ」
「………………」
「無言は肯定。まさかの図星」
「いや……そうか……そうだな……否定はしないが肯定もしねぇといったところだ」
「どうせボケっとしててハンジに指摘されては何度もエルヴィン団長に遅いまだ帰らねぇのかって問い詰めて最終的に会いてぇなぁ……て声に出したり顔に出してたんでしょ」
「よせ。そこは察しようが黙ってるところだろうが」
「ささやかな仕返しだよ」
煩わしいと、不愉快だと感じることなぞできやしないのだ。何故ならば、これがふたりの “いつも通り” なのだから。
最初から素直になれないふたりの、戯れだ。
「風呂上りだと流石にあったけぇな」
「おいこら、どこ触ってるの」
「脇腹だが、何か問題でもあるのか?」
「いやいやいや。なにその怪訝そうな顔。自分は悪いことしてないのに何言ってんだコイツ、みたいな顔。握りつぶすよ」
「おこだな」
「おこだよ」
こっちに詰めすぎ、狭いどいて。こっちは冷てぇんだ、我慢しろ。体温高い癖に、お陰で暑苦しいのだけれども。ならよかった。何が。ナニが。最低。褒め言葉か。褒めてない。
暫しの攻防のあと、結局寝技をかけられやはりこうなるのかと諦めて。
それでも与えられる温もりに抗う気も起きず、蕩ける様には瞼を閉じた。
凍えてしまいそうな夜に、手放せない抱き枕へ、待ち望んでいた抱き枕へ、彼女から彼へ、彼から彼女へ、待ち人から待ち人へ。
「おかえり、グズ野郎」
「……ただいま、変態オヤジ」
今度こそたったひと言に、全ての想いを乗せる。
fin.
(無事に帰ってきてくれてありがとうな)(寒い中待っていてくれてありがとう)
■act:09 拝啓、底無しの井戸の底から
コポリ、と空気が口から漏れていく。それはどこに行くのだろう。光の見えない真っ暗な場所でそんな事を思った。
不思議と息苦しくはない。けれどここは水の中。――そうか。これは夢なのだ、と認識する。
深く、どこまでも落ちてゆく。行き止まりのない、底へ。緩慢に、深淵へ、視界に映るは泡沫の残像。
――静かな夢は、久しぶりに見る。
意識ははきとしている。体は動かない。頬を撫でる髪。夢だと認識したからだろう、感覚は健在だ。
暗闇には泡沫だけが見えた。他はやはり、何も見えない。
いつもの夢ならば、聞き取れない程の慟哭が嵐のように浴びせられ、最奥へと、底へと無数の腕に引きずり込まれる。
今日はきっと、みんな疲れているのだろう。恨み辛みも嫉みも毎日叫んでいては声も枯れる筈だ。阿鼻叫喚は絶望の、更なる絶望へ堕ちては押し黙る。
――違う、そうじゃない。
この夢は、ただの孤独。己以外誰ひとりとして存在しないひとりぼっちの夢だ。静かなのは、その所為なのだ。
――とうとう見放されたのか。
誰もいない。誰もいなくなった。お前には孤独がお似合いだと言わんばかりに。
――きっと、これが私の末路だ。
それならばいっその事、このまま溶けて無くなりたいと思う。
途端、ガクリと体が沈み、ビクリと弾けるように元の場所に戻る。――驚いた。筋肉の不随意運動の一種、ジャーキングとやらで急に夢から覚めたは、ジワリと滲む冷や汗に身震いをひとつ。
次いで見開いていた目を元に戻すべく瞬き、顔を上げれば眼前には同じく驚いた様子のリヴァイが居た。
何とも間の悪い。居眠りをしていた事への罪悪感からではなく、無様にもひとり驚き無防備な様子を見られてしまった事による羞恥が空気を凍らせた。
涎は大丈夫そうだ。思わず口元に手を当て確認する。
だがリヴァイはの態度よりも、その手元に意識を向けたようで――体が沈む衝撃で悲惨な有様になってしまっている手元を。
「その万年筆はエルヴィンの野郎から貰ったもんだろ? 特別報酬だったか……インクぶちまけやがって、書き直しだ。机にたれてないのは幸いだったな」
「………………」
「手もインクまみれじゃねぇか。これを使え。拭いたらさっさと洗ってこい」
「………………」
「こりゃあもう駄目だな、完全にイカレてやがる……まぁペン先だけ交換すれば問題はねぇだろうが、チッ……無駄に高そうな万年筆だな……修理なら店でやって貰え」
唖然とするを置いてきぼりに何から何まで、至れり尽せりなリヴァイの行動。
散々世話のかかる女だと言われ続けてきただが、これは彼自身が単に世話焼きというだけではなかろうか。そんなことを思った。
実際のところは分からないが、目の前で世話を焼かれるは言われるがままに動くべく差し出されたハンカチで手を拭う。
果たしてインクは落ちるのだろうか。恐らく使い捨てにするに違いない。
彼はハンカチの1枚や2枚そこらで文句を言う狭量な心の持ち主にあらず、故に洗浄を促す部分はのインクまみれになった手を指しているのだと容易に察しがついた。
だからと言って素直に使い捨てる気は毛頭なく、綺麗に落とせないか出来るだけ試みようとは思う。
なんだか申し訳ない。謝罪か謝辞かどちらを先に言おうか。迷いながら口を開いたから発せられた言葉は――
「お母さん……」
「………………」
「………………」
「………………」
「………………」
「………………」
「………………」
「………………」
「………………」
「………………」
「………………」
「………………」
「………………」
「…………あ?」
「違う。お母さんみたいだと言いたかった。別に貴方を呼んだわけじゃあない」
――またもや “やってしまった” 。己は一体何度羞恥を重ねれば良いのだろうか。今日はよくドジを踏む日だ。穴があったら入りたい。
しかも、その恥ずかしいところを全てリヴァイに目撃されるというオプション付きである。視線が痛い。
はお言葉に甘えて早々にこの場から逃げるように退出するのであった。
残されたリヴァイは先程までが座っていた場所へ回り込むと、インクの広がる紙を丸めゴミ箱に放った。
吸い込まれるように入るそれを見届けて視線を少し乱れた机上へ戻す。置かれた万年筆、重ねられた書類、くすむ下敷き、立てかけられた羽ペン、封筒。
些か色あせた机の表面に指を這わせ、黙考。
昼前から堂々とうたた寝こくとは流石のリヴァイにも擁護のしようがない。
もし他の誰かが鉢合わせしていたらと想像すると肝が冷える思いである。
まぁ、聖域で寝ているわけでもないし扉の前に後輩などの気配があれば寝顔を見られる前に起きるだろうが。
――ふと思う。活動限界を超えれば誰の前であろうと寝てしまうのだろうか。そう言えばナイフ投擲事件の最初の被害者であるハンジの件がある。
当時まだ仲良くなる前に寝ぼけたがナイフを投げた(らしい)という事は、それなりに深い眠りについていたというわけで。
「頼むからここでうっかり熟睡なんかしてくれるなよ……」
ハンジの場合はどのようなシチュエーションだったかは分からないまでも、不安要素は少ないに越したことはない。それに。
彼女は知る由もないのだろう。魘されている中で極希に、その名を口にする事を。
彼のかいなに抱かれ、安堵の眠りについては愛おしそうに、子供のように。
まるでその存在を確かめるように、『親』という存在を呼ぶ事を。
どうか。他の誰でもない、己の前以外でそれを口にしないようにと切に願うばかりだ。
それはただの独占欲と名状するのだろう。彼女が恥を掻く事がないようにと危惧する類のものではないのだから。
己の邪な考えを振り払うようにお揃いのティーカップを棚から取り出し、ふたり分の紅茶を淹れ、の執務椅子に腰掛けたリヴァイはそれを口に含んだ。
どこか物足りない。どうやら己の舌は肥えてしまったらしい。の淹れるその味をと。
「勝手知ったるなんとやら……間違えて兵士長様の執務室に来てしまったのかと思ってしまったのだけれども」
戻ってきた矢先。優雅に、それはもう我が物顔で紅茶を啜るリヴァイに嫌味を投げかけるの表情にはそこはかとなく呆れが浮かんでいた。
遅かったな。気にせず目で訴えかければ水気を絞られたハンカチを鼻先に突きつけられる。
一応の努力はしたらしい。が、インクの染みは完全に落なかったようで、まぁそうだろうなと黒ずんだそれを捨てろとゴミ箱を指し示す。
「待ってて欲しい。今新品のものを探してくる」
頑張った割に呆気なくゴミ箱に投げ込まれるハンカチに何も思わないわけではないが流石、ちゃんと代わりの物があるとのことで。
しかし残念ながら聖域へ探しに行くもお目当てのものは見つからなかったという。
「申し訳ない。後で買ってくる。確かクローゼットに仕舞ってあった筈なのだけれども……おかしいな……」
記憶を辿り思案に暮れるそんな様子を見て、漸くリヴァイは口を開くことにした。
まったく、と心底呆れた口調で。どこか冗談めいて、否、完璧冗談で。棒読みで。絶対にがノってくると確信して。
「あんたもういい歳なんだから、もっとしっかりしなさい」
「……はい、ごめんなさいお母さん」
「そろそろ独り立ちしてもらわないと、お母さんいつまでたっても安心できないわ」
「はい、ごめんなさいお母さん」
「まぁでも、添い寝は毎日してあげなくもないけど」
「はい、よろしくお願いしますお母さん」
「……言ったな」
「……言っちゃったよ」
「しょうがねぇ娘だ」
「いやついうっかりノリで」
「計画通りだがな」
「だろうねぇ」
先ほどの失態をからかうように、羞恥を払拭させるかのように。してやったぜと口角のあがる口元をティーカップで隠しながら。
(お義父さんの次はお義母さんか……いや、俺は恋人設定だった筈だ。どうしてこうなった)
墓穴を掘ってしまったような気がしないでもないが扠置いて。
「ハァ……書き直しだねぇ……」
そう言ってリヴァイを退け入れ替わりに腰掛けたは引き出しから便箋を取り出した。先ほどインクをぶちまけてしまったものと同一のものだ。
どうやら手紙をしたためていたらしい。外部の人間とのやり取りはそう珍しくもないが、詳細までは知らぬ故に興味が沸いた。
先ほどちらりと窺いみた封筒に差出人の名は無く、もしかしたら単独任務における極秘のものなのかもしれないと思案する。
「なに、気になるの」
羽ペンをインクに浸していたからの予想外な問いかけにリヴァイの視線は泳いだ。バレバレである。
別にジロジロと不躾に見ていたわけではないのだが、降参だ。素直に疑問を口にすることにした。
「……お前に文通相手が居たのか?」
「随分遠まわしに訊くねぇ。私が手紙のやり取りしてる事くらい知っているでしょうに……今回の差出人からはたまに連絡が来るぐらいだよ」
「そうか……実家からなら知っているが、他は知らん」
「後はまぁ昔馴染みだとか……情報屋さんとか、他の兵団の同期からとか……割引券から任務の機密まで色々と……」
「私書箱が多くて大変だな」
「最終的に一箇所にまとまるよう工夫してるから大丈夫」
「抜かりねぇな」
これは驚きだ。兵団内では冷酷人間と畏怖される存在だが、それ以外では予想以上に交流している相手が数多く居ると。そうか。リヴァイは便箋を買う事を決めた。
使い物にならなくなった万年筆を仕舞い、羽ペンにインクを浸した。普段本音を口にしない彼女は手紙でどのような事をしたためるのだろう。
相手がどの程度親しいのかも、どのような関係なのかも知る由もないが、興味はひかれるばかりだ。
机に寄りかかるリヴァイは、背後で羽ペンを走らせ始めた音を聞きながら想像を膨らませる。しかし、の性格を考慮したとしても結論にまでは至らなかった。
てんで想像がつかないとはこの事か。あっさりと短文で済ますのか、上辺だけを取り繕う丁寧な長文に仕上げるのかそれさえも。
――ふぅ、と深呼吸ともため息ともとれる音が耳に届く。もしかして己が存在する事によって気が散ってしまっているのだろうか。
故の遠まわしの退出願いなのだろうか。リヴァイの脳裏に懸念が過る。が。
「こんなにも多数の人と手紙のやり取りをしてはいても……その殆どが社交辞令と偽りばっかりで辟易するよ」
どこか憂いを帯びたぼやきが紡がれる。恐らくは、自虐を口にしたのだろう。
仕事であれ、プライベートであれ、素を出すことを許されない立場であるのは確かだ。他兵団とはいえ同期にでさえも詳細な事柄は書けない。
その事に対しての憂いなのか。それとも。
「身内や同期にはそこまで規制はされていないけれど……プライベートで嘘を吐くのは、流石に心苦しいねぇ。その内 “ぼっち” に逆戻りしそう」
仕事、任務に支障がきたさないのならそれでもいいのだけれども。そう続けたはしたためる手を再開させた。
彼女は極力嘘を吐かないように工夫はしているそうだ。核心には触れず、当たり障りのない出来事や近状を書き連ねると。
単独部隊長という立場も、壁外では単独で動いている事も、普段どのような仕事をしているのかも総て匠に隠し、けれど冗談を混じえ機微は伝わるように。
相手は所属も地位も行動もさらけ出しているにも関わらず、だ。ちなみに相手によっては部外秘などの情報を流してもらう事もあるとか。
ものによっては嘘を吐かざるを得ない場合も勿論あり、嘘つきのまま文通を続けるのは如何なものか。
彼女は苦悩している。もし嘘が発覚してしまったら――みんな離れていってしまうのでは。
いくら孤独に慣れているとはいえ、やはり親しい者を失うのは苦痛に他ならない。
だからこそ虚言を回避する為に余計な神経を使うのだろう。
機密でいて重大な手紙を書くよりも考えるのが億劫な手法だとリヴァイは思った。
そんな事を毎度続けるのはどれほど面倒で、どれほど精神をすり減らす行為なのか考えなくとも分かる。
どうやら「辟易する」という言葉の意味がとても重いものだったのだと認識を改めさせられたようだ。
「……まぁ、元より素直な気持ちなんて書きたいわけではないのだけれども。むしろ偽りを並べる方が楽な場合もあるわけで」
それでも。親しいと認識している人間には極力礼を失する事はしたくはない。そんな思いがひしと伝わってくる。失うことに対してのものだけではない。
今まで散々見てきたあの律儀さを持ち合わせているならではの憂い。リヴァイは少しだけ、手紙の中のという人物像が想像出来た気がした――。
“ 拝啓 新緑の候。皆様におかれましては益々ご健勝のこととお慶び申し上げます。
さて、このたび同期会を下記のとおり開催する運びとなりました。
御多忙とは思われますが、皆様のご来会を心よりお待ちしております。 敬具
記
(中略)
第20回同期会幹事代行
調査兵団所属 ・
追伸:通常通り私は飽く迄も『代行』ですので間違っても調査兵団宛てに返信しませんようお願い申し上げます。
余計な手間が大変めんどくさいです。 ”
「本当に、辟易するねぇ……印刷代と郵送代を安く済ませられるコネがあるってだけで毎度の如く代筆を頼まれる身にもなって欲しいもの」
そう言っては印刷屋宛と書いた封筒に書き上げたばかりの原稿を入れた。勤務時間中に私用を済ますなと言いたい。今までの思考全てが台無しだ。まったくもって。
「嬉しい悲鳴で何よりだな」
リヴァイの言葉を聞き届け、素知らぬ顔では少し温くなってしまった紅茶を啜るのであった。
fin.
(言葉にできないものを手紙で打ち明けられるとは限らない。だからこそ、取り繕った文字に切なる思いを込めるのだ)
■act:09 ぬくもり宿るかいなに抱かれ彼女は静かに眠りにつく
この後任務を終えた団員が帰ってくる。それまで付き合ってくれ。
そう言いながら私室に暇を持て余した者たちを招集し、エルヴィンはポン、と軽快な音を奏でながら酒瓶の栓を抜いた。
各自に配られたグラスに注がれる琥珀色の液体。上品な香りが室内に充満していく中、エルヴィンだけは水差しを傍らに置いている。
曰く、団員が帰ってくるまでは遠慮しておくとのことで。
「今回新たに発見した巨人の生態について――」
「そっちの開けてねぇ酒は特別報酬か?」
「そんなところだ。いい酒でいい夢を……なんてな」
何分気持ちのいい仕事ではないのだ。胸糞悪い事柄は酒を飲んで忘れるに限る。毎度ではないが “駒” に対するエルヴィンなりの労わりである。
「そこで私はひとつの仮説を立ててみた――」
「……たった一杯で寝ちまえるお手軽な “駒” も居るようだが……」
「今回は早い寝つきだな。まぁ無理もない、か……」
持ち込んだブランケットで上半身を覆いソファの隅に座っていたは、目を離した隙に静かな寝息をたて始めていた。
ひとりでのうのうと眠りやがって。誰にするでもなく白熱する巨人談義に、いつ己に白羽の矢が立つか気が気ではない状況下。
リヴァイは逃げるようににちょっかいを出そうと、僅かにブランケットを持ち上げ覗き見る。
――眠いものは眠い、とでもいいそうなツラをしてやがる。
眠りを妨げるものは何人たりとも云々。起こしたら機嫌を損ねそうだ。そんな顔をしている。
具体的にどんな顔をしているのかと問われれば、実のところただ安らかに眠っているだけである。
「――、ぬ……――――」
だがそれも束の間の安眠だった。途端に眉間へ寄る皺。寝言は寝息となって聞き取ることは叶わなかったが、掌は何かを掴もうと固く握られる。
それに気づいたリヴァイはブランケットを戻し、そのまま肩を掴み引き寄せ。
「『ぬ……』?」
「寝言かい? なら眠りが浅いのかな。目が覚めたら怒られるんじゃない?」
「我々も共犯だと思われたくないが……元に位置に戻すにもあまり動かすと本当に起きてしまうからな。見なかった事にしておこう」
の頭を己の膝へ移動させるのである。ちょっとした賭けだ。魘される体に触れ、温もりを与え、悪夢から遠ざけられるか。
掴もうとしているのならば、掴めたと錯覚させればいい。隠された掌をこじ開け指を絡める。強く、強く力を込める。
――魘されてる度にこんな事をしてると知ったら、どんなツラをするだろうか。
起こす時もある。今のように試す時もある。その判断は状況によって変え、今回は後者を選んだ。
何故ならば。
「勝手に寝ちまったのはこいつだ。何されても文句は言えんだろ」
起こしたとしても、起きてしまったとしても。結局怒られるのならば思う存分好きにさせてもらうまでだ。
悪戯心とほんのちょっとの自己満足感に浸って、所謂 “開き直り” をば。
どこか満足そうにグラスを傾けるリヴァイ。それを目の当たりにしたエルヴィンとハンジは呆れたように笑う。
一応忠告はしたわけだが、この場にいる限り同罪でしかないではないか、と。ならば毒を食らわば皿までだ。
「ねぇねぇ、たまには私と一緒に寝てくれよー」
ブランケットに包まり、膝枕をされているに近寄るハンジ。
「てめぇは汚ぇから却下だ」
「なーんでリヴァイがの床事情に口出しするのさ」
「その言い方はよせ。あらぬ誤解を生む……そんなにこいつの体を血が滲むまで洗わせてぇのか?」
「貴方はもう少し以外の人間に優しさを見せても良いと思うよ」
「バカ言え、お前以外には結構見せてる」
「……そろそろ泣いてもいいよね」
次いでひとり掛けのソファから身を乗り出し、覗き込むエルヴィンが名乗りを上げる。
「ハンジが駄目なら俺は――」
「野郎は論外だ」
「性差別とは感心しないな」
「そんな大層なもんじゃねぇ……尊その他卑だ」
「大層愛が重い」
「自覚はある」
「尚の事タチが悪いな」
そして。
(……なんだか周りが喧しい件)
ひっそりと意識を浮上させる話題の中心人物――流石のも耳元で騒がれてしまっては起きざるを得まい。
それを勘付かれるヘマはしないが、このまま寝たふりを決め込んで聞いてはならないものを聞いてしまうのは本意ではなく、気が咎めるというもの。
(あぁ、でも……もう少し、このままで……)
だが後ろめたくとも身じろぎひとつせずは微睡みの中、貪欲に身を委ねるのだ。
「はさ、こういった飲みの場とかでは貴方が居なくちゃ中々寝落ちしないって知ってたかい、リヴァイ?」
「我々の前で気を張っているわけではないようだが、やはりお前が居ると最低限の遠慮も何もどこかへ行ってしまうらしい。無防備そのものだ」
「そりゃアレだ……お前らのめんどくせぇ絡みを俺に押し付けてさっさと戦線離脱してるだけだろ」
「そうとも言う」
「あながち間違いではなさそうだ」
「そこは肯定するところじゃねぇだろうよ……」
我が儘であろうとも、無遠慮であろうとも。狡い行為であろうとも。今だけは、とはこの温もりを手放したくはなかった。
「何はともあれ、だよ。いい傾向だね」
「あぁ、そうだな。個室を与えようとも人の気配で起きてしまうばかりか悪癖を発揮してしまうような人間が、こうも無防備に寝ることが出来るようになった……この上なく喜ばしい事だ」
己は寝ぼけているのだと言い訳をして、しがみつくように。彼から与えられた温もりに甘んじて、己の弱さを確と自覚しながら。
「どうだかな……言い換えりゃ、男として見られてねぇって事だろ」
「その通りだね」
「間違いない」
「てめぇらの時よりハッキリ肯定しやがって……なにか、さっきの仕返しとでもほざくつもりか」
「当然」
「良くわかってるじゃないか」
「…………」
このままでは駄目だと分かっていても。――何故なら。
(懐かしい……気がする)
彼の腕に抱かれる度に、彼女は泣きそうになった。
記憶から失われた筈の温もりが、蘇ったかのような錯覚をおこすからだ。
(そんなはずはないのに。この人はどこまでも優しくて、無償の情をくれるから……これじゃあまるで――)
新たな居場所として根付いた場所で、剰えよく知りもしない彼の腕の中で、忘れていた温もりを感じることが出来るなぞ。
(……愛情は愛情でも、母からのそれをリヴァイが……これ以上はよそう、起きていることがバレてしまう)
は考えを振り払う。冗談で誤魔化して、真実から目を背けるように。
己には不釣り合いでいて、分不相応なそれを認めてしまえば今まで積み上げてきたものが崩れてしまうと本能で知っていたからこそ。
だからこそ、自制する。きっとそれは手に入れてしまえば代償は大きく、支払えるものではないと知っているからこそ。
「不思議なものだな。お前たちは一方に偏っていると見せかけて釣り合いが取れている」
「あぁ、実に奇妙でいて、とても珍妙だ」
「うるせぇな……そろそろ起きちまうだろうが」
これは一頻り不幸に痛めつけられた反動なのだろう。失い続けて、癖付いてしまった思考。特殊な環境下で根付いてしまった習慣とも言えるそれ。
――等価交換。この世に無償のものは無いという考え。律儀にも何かを与えられれば何かを返してしまうのはこの所為で。
故に。何かを失うのならば――何かを得るというのならば、きっと。
「それだが、リヴァイ……彼女には起きてもらわなければならない。――分かっているね、」
「――はい。既に酔は覚めております」
きっと彼女は何かを得るために、これからも失い続けるのだろう。
「チッ、何が暇人の集いだ……これじゃあまるで壮行会じゃねぇか」
「たまには激励も乙だろう? 外は寒い。体を温めてから任務に向かって欲しくてな」
「寝起きなので血圧は下がってしまいましたが、お心遣い痛み入ります。して、何故私はこの人の膝を枕にしていたのです?」
その何かに取り憑かれたかのように。何かを取り戻そうとするかのように――。
「さっさと片付けてさっさと帰ってこい。続きはその後だ」
「続きとは」
「それはね〜」
「よさないか、ハンジ。時に人は知らなくて良い事もある」
無償のものだとしても、律儀に対価を支払いながら。ストイックにも、自己満足にも。
「なにがなんだか良くわかりませんが……明日は雪が降りますので、皆さん風邪を引かないようにお気をつけください」
彼女は行く。見送る彼らの激励を一身に受け、何かを失いに。そして、何かを得られる事を願って。
「行ってまいります」
彼女は往く。その “何か” が一体なんなのか気づきながら。あるいは、気づかないふりをして。
fin.
(自ら期待はせずに、求めずに。心のどこかでいつからか暖かくなっていた布団を思い浮かべながら、手を離す)
■act:エピローグ 彼は夜にそれを馳せる
無音の世界。深々と振り続ける六つの花が、窓ガラスに張り付いては解けてゆく。
雫となったそれは滴り落ち、一筋の透明な軌跡を描いた。密やかに、誰にも気付かれぬまま。
ポタリ。赤銅色の蝋が落ち押し付けた印璽が沈む。間を開けず持ち上げれば封の施された手紙が完成する。
彼はそれを横へ滑らすと背もたれに身を沈めた。そろそろ寝てしまおうか。いや、手紙を使いの者に手渡すまでは。
暫しの葛藤。彼は己が思うより疲れているらしい。無意識に眉間を揉む姿が総てを物語っていた。
――彼女の帰還はいつだったか。
懐から懐中時計を取り出すよりも置時計を見遣る。肘置きに投げ出した腕が動かないのだから仕方がない。
針は午後10時を指していた。
――もう少し仕事を捌いておきたいが、どうやら限界が近いらしい。
普段ならば最低あと2時間は書類と相対するのだが、蓄積された疲労がそれを許さない。
彼の使役する “駒” が帰還するまであと数時間。今のうちに寝ればその予定時刻に起きれる筈だ。脳内でぞんざいな見積もりを出す。
――手紙は、明日で構わないか。
そうと決まれば行動は早い。手紙を仕舞いメモを残し颯爽と寝室へ、手早く着替えるとベッドに潜り込む。
冷たいシーツが素肌を覆い体温を奪ってゆく。しかしそれも直に温まり心地よい睡魔が押し寄せ――微睡む意識の中、浮かぶは彼女の姿だった。
――君は期待を裏切らないな。
任務は結果が総てだ。決して終わりよければ、とはいかない。
結果とはもちろん結末。成果然り、戦果然り。そしてその過程も重要に他ならない。
もし結果を出すにあたり、その過程がいい加減なものならば結果自体に不都合が生じるだろう。
例えば、隠すべき人間に正体が見破られてしまったとする。それを野放しにしたまま任務を遂行し成し遂げたとして、それが本当の成功と言えるだろうか。
結果的に壁外調査における議会の不要人物を排除できたとしても、正体を見破った人間が告発してしまえば調査兵団の立場は任務を遂行する以前よりも危うくなるだろう。
後々のフォローでどうにかなるのならばそれに越した事はないが、彼女に任せた仕事はフォロー程度で穴埋め出来るような生易しいものではない。
即ち、ほんの些細なミスでさえ許されない秘匿性の高い重大でいて危ういものなのだ。
だからこそ、結果報告を聞いた彼に期待を裏切らないと言わしめる彼女の仕事ぶりは優秀と言わざるを得ない。
結果に対する懸念も警戒も矛盾も緻密に排除され、如何に丁寧且つ慎重に取り組んでいたかを物語るそれに信頼以外の感情を抱かせないのだから。
穏やかに眠る彼に一切の不安は無い。否、ひと欠片でもあれば眠ることは出来ないだろう。
しかし、いつもならば帰還を起きて待つというスタンスがイコール不安を抱いているとは繋がらない。
『おかえり』と迎える事は、義務だ。命を危険に晒し帰還した者への最低限の労わりだ。
それは任務の内容に見合わない些細なものだろう。そうだとしても伝えずにはいられまい。
『ご苦労だった』と。『君のお陰で進撃の一歩を踏み出せるのだ』と。
――労わり然り、特別報酬なんて俺の自己満足に過ぎない。命に見合う対価にもならないのだから。
それでもいいと従う彼女の妄信とも言える忠誠心は。
――なんと都合のいいものか。
恐ろしい程に、己に適した存在。果たして彼は彼女の事を “手放せないただの駒” として置いているのか、はたまた――。
ふと、傍らに感じた気配に意識を浮上させる。枕にうずめた顔を僅かに覗かせ、その正体を見遣った。
「ただいま帰還しました。そのままで構いません。報告を終えたら早急に引き上げますので」
いつも通り感情の篭らぬ声音。無表情ながら僅かに悟らせる呆れ。憤りは無く、ただ風邪を引きそうなあられもない彼の姿に物申したそうである。
彼女の様子に安堵の息を吐く。怪我もなく、無事に帰還した事への安堵。お言葉に甘えて起き上がらずこのまま聞こう。動くのもままならないのだと言い訳を飲み下す。
次いで報告を聞き届ければ再び睡魔が襲う。
――君は本当に、期待を裏切らないな。
声にならない声が脳内に響く。何度も口にしてきたその言葉が彼女の耳に届くことは無かった。何故ならば。
――『期待を裏切らない』という言葉は果たして、彼女の重荷になってはいないだろうか。
脳裏を過ぎる懸念が歯止めしたからだ。それは確かに、気遣いだった。
END.
ATOGAKI
閑話休題という名のSS集でした。本編でなくてすみません。
いっぱい話を詰め込んだけれどナンバリングされたストックは皆無という。逆にこれで出たボツ案がストックへ。
次また閑話休題という名のSS集を書くなら溜まりに溜まったストックを優先的にぶち込もうと思います。
手抜きジャナイヨ。御蔵行きしないための救済処置ダヨ。そういうことにしておきましょうそうしましょう。すみませんでした。