She never looks back
――前日。
「ハンジ、その眼鏡を貸して欲しい。度なしレンズと交換……伊達眼鏡へと改造を忘れず」
「どうしてだい? 街で買ってくればいいじゃないか。お金に不自由しているわけじゃないだろ?」
「前々から思っていた。貴方の眼鏡はワイルドで良いなぁ、と」
「私に下手な煽ては通用しないよ、。何か裏があるんだろ?」
「……貴方のその脂ぎっしゅなギトギトできったない眼鏡ではないと意味がないから寄越せ」
「さーん……?」
― ワケありの完璧主義者 ―
ペトラは走っていた。暗い路地裏をひとりで懸命に。見知らぬ複数の男に追われながら。
「お嬢さーん、逃げないでよ〜悪いことしないよ〜」
どうしてこんな事になってしまったのか。原因は兵団内の友人に付き合わされ夜の街へとくり出した事が全ての発端である。
飲み会などではなくただの夕食だと思っていたのに。いざ外食店に着いてみれば複数の男が待ち受け面白くもない話を聞き退屈を強いられた。
これは所謂『合同コンパ』なるものだろうかと気づいた頃には時すでに遅く。盛り上がる場に適当な方便を吐きからがら逃げてきたというわけで。
そこまではいい。見るからに軽そうな野郎どもに興味もなければ好きで合コンに興じる友人たちの娯楽をどうこう言うつもりは毛頭なく、己は己で立つ鳥跡を濁さずよろしく後腐れのない別れ方が出来たのだから。
だがしかし。ところがどっこいである。それは店外に出てからの事だった。
『なに、君ひとり? 後ふたり居るって聞いてたんだけど……まぁいいや、ひとりゲット〜』
待ち伏せである。口ぶりからして恐らく友人含め3人が帰るところを拉致しようと企んでいたに違いない。一緒に合コンへと洒落込むチームと外で待ち伏せするチームに別れ。
なんとも単純且つゲスいやり口である。一体友人は何処でこの人たちと知り合ったのか疑問を感じ得ない。まったく遊び慣れていない癖に浮かれすぎだ。
と言うわけでその友人らに知らせる前に追われる事となり今現在進行形で本部へ迂回しながら走っているのである。
「調査兵団って言うから逞しいのを想像してたけど可愛い子も居るもんだね〜。お得意の対人格闘はどうしたの? 立体機動装置がなければただのレディなのかな〜?」
正直この状況が悔しい。男女の区別など無に等しい兵士でありながら一般人相手に逃げ回るなぞと。しかしペトラにも考えあってのものだった。
『いいですか、ペトラさん。複数人の敵に遭遇した場合、殲滅など考えずまずは逃げてください。相手が野郎なら尚の事無謀な賭けに打って出る必要はありません』
あれは数日前、珍しくもと話す機会が訪れた執務室での事。ペトラはの単独任務について前々から興味があり、この期に乗じて聞いてみようと話を振ったのだ。
彼女は様々な極意とやらを伝授してくれた。この話もそのひとつだ。それが今ペトラを勇気づける事になろうとは――知識があって損はないとは言ったもの。
言葉の端々に垣間見える物騒さは置いといて。
『一対複数というのはどんなに鍛え上げられた兵士であろうとも部が悪いことに変わりがない。だからこそ少しでも勝てる確率を上げるために考えを巡らす必要があるのです。不意打ちで気絶させられたりしなければの話ではありますが。
対峙するのは自分が100%勝てると思った時だけ、何処か自分にとって有利な場所へ誘導するのも良いでしょう。または心強い人類最強に頼るなど方法はごまんとある……臨機応変に対処できる柔軟な思考が求められますね』
これが幾度の単独任務をこなしてきた人間の言葉か。重みが違う。感心も然ることながらこの人は一体どこでこのような知識を学んだのかと疑問に思ったものだが。
「……いくらこの辺は知り尽くしているとは言え、人通りの少ない道を選んだのは失敗だったかもしれないわ……どうすればいいのかしら……」
入り組んでいるわけではないが同じような景色ばかりで方向感覚が鈍る路地裏。大通りを駆け抜けた方が良かったのでは、と今更になって押し寄せる後悔。
しかし人目につく場所での諍いや騒動は御法度だ。何故なら兵士として、ましてや民衆にあまり歓迎されていない調査兵団の者が問題でも起こせばどうなるか。考えなくとも分かる。
これ以上印象を悪くするわけにはいかない。噂はどんなに些細なものであろうと大事になればなるだけ兵団を貶めかねないのだから。そういうことだ。
――だがその考慮が裏目に出る事となる。
「挟み込み成功〜っと。さぁ、逃げ場は無いよ。 ……どうする?」
虚しくもペトラは先回りされた挙句挟み撃ちにあってしまうのであった。流石は初の実践、そう上手くいく筈がない。
前方からも後方からもジリジリとにじみ寄る気配に『窮地』の文字が浮かび。
『もし……そこら辺で絶体絶命の窮地に陥ってしまったとしても最後まで諦めないでください。それがなりよりの動力となるでしょう』
同時にの言葉が脳裏を過ぎる。この話は壁外の場合を想定したものではない、安穏だと信じて疑わない壁内での話で。
だからこそが異端に見えてしまうのだ。壁外で巨人を相手に戦うのが調査兵団だというのに、彼女は壁内であろうとも『何か』と戦っている。
いつかの馬車の中で聞いた彼女の境遇。あの時の泥だらけの姿含め極意を聞けば分かる、単独任務とは命懸けのものなのだと。
「こんなもの……分隊長に比べればどうってことないわ……」
ペトラは己を奮い立たせ身構えた。伊達に度重なる壁外調査を生き残ってはいない。巨人に比べれば一般人男性の9人や10人、なんとかなる……はず。おそらくきっとたぶん。
嫌な汗を流しつつタイミングを見定める。最後まで諦めないと決意を固め――次の瞬間、前方の男が駆け出した。
「のいたのいたー」
のだが。突如として聞こえた拍子抜けさせる暢気な声。そして。
「さっさと終わらせて風呂に入りてぇ……」
この上なく剣呑さに磨きをかけた不機嫌絶好調な声が背後から聞こえてきた。一体誰だ。何事だ。駆け出した男は思わず足を止めた。
そして興奮冷めやらぬ野郎どもと共にペトラも困惑する中で、真逆な声音を発した人物たちは堂々と彼女らの間に割って入って来たのである。
「な、なんだアンタら!」
「たったふたりで勝てるとでも思ってるのか!?」
「まぁ予定は少し狂ったが問題ない……早く彼女を連れてアジトに戻ろうぜ」
招かざる客よろしく現れたふたりに狼狽えながらも態勢を立て直す男たち。それを余所にギラついた視線を一身に受けるふたりはというと。
「相棒、『俺の女に手を出すな』とか言ってみません?」
「言わねぇよ相棒」
「そうですよね。こんなみすぼらしいナリの野郎にそんな事を言われちゃった女性が不憫でなりませんよね相棒」
「気にするところはそこか。少し黙ってろ相棒」
次いでペトラを守るように前後に立つその人物たち。キャスケットを被り心なしか汚れた服を身に纏う背の低い少年とおぼしき片割れと同じような身なりで眼鏡をかける青年だ。
彼らは顔を隠すように不審にそこそことして怪しげで尚且つ不可解なやり取りをしているものの、ペトラを守らんとする振る舞いは彼女にとって救世主に変わりは無く。
人数の割合では劣勢、しかしなかなかどうして安堵できるのだろうか。両脇に見える小柄な背からは頼もしさしか感じられなかった。
「はい。ここは脳筋リーダーに任せてお嬢さん、僕といっちょランデヴーなんてどうです?」
「えっ?」
「リーダーという名の指揮官はお前だろ」
「ではではお手を拝借」
「あ、あの、ちょっ――」
これはどういう状況なのだろうか。
考える暇を与えることなく少年?は小銃片手にペトラの手を取り駆け出すと、慄く野郎どもを押しのけ路地裏からすたこらさっさと退散するのであった。
引きずられるように手を引かれたペトラが顔だけ振り返り見たものは、ひとり残された青年が襲い来る野郎どもを返り討ちにしている姿だったという。
♂♀
――数日前。
「今日の収穫はどうだ?」
「…………無きにしも非ず、といったことろで――」
「君が女装したにもかかわらず釣れなかったか……しかし情報は得た、と」
「女装…………アジトを突き止めました。被害者の証言と一致する特徴の男を尾行した折に」
「大まかでも構わない。数は?」
「20人は確認できましたが力及ばず正確な人数までは……」
「いや、子細無い。此方も予定より人手を増やそう。早急にふたつの小隊を編成する」
「より確実性を求めるならばそれで問題ないかと。幸いにも私が見た限り全員が一般人……名のあるゴロツキは皆無、そこら辺の不良が粋がる烏合の衆もいいところです」
「やはりか。いくら情報収集に長けている君とはいえこんなにも早く尻尾を掴むことが出来たとあらば相手はど素人で間違いないだろう」
「今までの被害届に目を通したところ手法も証拠の隠滅もお粗末なものでしたしね」
「我々が出る幕では無いと思っていたんだがな……やれやれ、憲兵も怠慢が過ぎる。貴族直々の依頼とはいえ面倒事に構っている余裕など今の調査兵団には無いというのに」
「兵団を憂うそんなエルヴィン団長に朗報です。尾行途中、団員との接触を確認しました。言うなればナンパって奴です。何やら合同コンパなるものを開催するべく約束を取り付けておりました」
「……好機だな。それを踏まえて作戦を練ろう。、君にも小隊に参加してもらうぞ」
「ご命令とあらば致し方ありません。しからば面子の方は?」
「リヴァイだ」
「えっ」
「リヴァイと組むんだ」
「他は……」
「リヴァイのみだ」
「小隊の定義を話し合う余地が大いにあるようですね」
「君たちはふたつの小隊とは別に動いてもらう」
「別ですかそうですか。小隊への参加の件はいづこへ」
「ひとつの犯行に20人余も動かないだろう。アジト突入組と合コン出歯亀組に別れ確保、君たち別働隊は言わば保険だ」
「あれ? 今この人出歯亀って仰りましたよね?」
「君はどちら側につく?」
「出歯亀組でお願いします」
「ならばアジト組は動員数を増やそう……当日の作戦の指揮は任せる」
「指揮といっても我々別働隊はふたりしか居りませんけどね」
「想定外の事が起きようとも全てを一任する。好きに動くといい」
「自由を与えると見せかけてただの放置プレイって事ですね分かります。見つからなければトランプで遊んでいても構わないと」
「だが失敗した暁には全責任は君に取ってもらう」
「これは酷い」
「期待しているよ、」
「……高みの見物でもしていてください。この件に関してはみな同様腹を据えかねておりますゆえ検挙までそう時間はかからないかと」
「世の女性を脅かす虫けらどもを掃討しろ。どのような手段を講じても構わない。全責任は私が取る」
「もうツッこむ気力もありませんが了解です」
♂♀
「ペトラさんが自分の立場を弁え人通りの少ない路地を選ぶ事は予想できました。故に何処を通るか目星を付ける事など造作もないこと……私の計画に狂いはございません」
とある執務室にて、部屋の主が聞いているのかどうなのか定かではないそんな様子を横目に、ソファで紅茶を啜り寛いでいるとハンジは雑談ともとれる会話に花を咲かせていた。
「なーんて、かっこいい事言ってるけどさぁ……、君ってば最初から彼女の事を附けてただろ?」
「当然。ペトラさんに薄汚い指の一本でも伸ばされれば切り落とそうかとは思っていた」
「本気でやりかねないところが君らしいよ」
やれやれ。肩を竦め部屋の主、もといエルヴィンに視線を移すとハンジは「貴方も何か言ってあげてよ」と訴えかける。
「指だけとは言わず切り取れる部位は全て切り落としても構わないさ。不逞を働く輩に容赦は必要ない」
署名する手を止め薄らと微笑むエルヴィンはハンジの訴えをピシャリと一蹴し、再び書類にペンを走らせ始めた。
今度はため息を吐くハンジである。
「揃いも揃って物騒だなー。ま、私も女を食い物にする野郎の事なんて知ったこっちゃないけどさ。何はともあれ一件落着だね」
昨晩の真相はこうだ。ペトラが巻き込まれたひと騒動、それは巷から地方より訪れた者までをも巻き込む詐欺集団の掃討作戦によるものであった。
これは数日前、とある貴族のご令嬢が被害に遭うのを皮切りに、調査兵団に依頼が舞い込んできた事で始まった作戦だ。
ご令嬢やその他の被害者による目撃証言から特徴をおさえ目を付け張り込んでいたターゲット、そして幸か不幸か偶然にも接触する団員、報告を聞き好機と言わんばかりに乗じて作戦を練るエルヴィン。
この一晩の出来事は最初から仕組まれていたのだ。無論ペトラやその友人の預かり知らぬところで。
「彼女たちには悪いことをした……最悪の事態にならないよう努めたとは言え怖い思いをさせてしまった事に変わりは無いよねぇ」
「仕方がないじゃないか、君が街を彷徨いても釣れなかったんだからさ。魚を釣るのは上手いのにことこういうのに関してはからっきしだね」
「いつぞやはナンパされた事もあったのだけれども……やはり干物女は伊達じゃない。明らかなる人選ミス」
「自分で言ってちゃ世話ないぜ。……どっかの誰かさんを釣れてる事が不思議でならないよ」
まさかペトラが待ち伏せしていた連中とひとりで接触するとは予想外であったが、この掃討作戦に導入した人員はふた桁に及んだが故に成功したと言えよう。
数には数で責める。珍しくも複数体制で取り組んだ事が功を奏したと言うべきか。ちなみに店内に残ったふたりの団員はペトラが去ったあと直ぐさま他の団員に保護された。
このような仕事は憲兵の管轄だが、貴族直々に依頼されたのだから相応の対応は然るべき処置である。それ以前に内容は許しがたい事案、力も入るというもの。
「で、今回の君の相棒はどこに行ったのさ?」
それはそうと。ハンジは昨晩から姿が見えないリヴァイの所在が気になった。己が貸した眼鏡の感想を聞きたかったのだが。それと冷やかしも兼ねて。
ハンジの思惑を確と察しながら敢えて触れないよう気づかない振りをしつつ些か疲労を垣間見せるはカップを置き、さも忘れていたと言わんばかりに目を瞬かせ答えた。
「あぁ、今頃ペトラさんに事情を説明している頃だと思う。昨日は報告や事後処理に追われて有耶無耶になっちゃってたしねぇ」
詐欺集団は数十名にも及ぶ人数で構成された組織だ。現行犯で逮捕された半数とアジトでのんびりしていた半数、それを一気に検挙したとなれば憲兵への引渡しや手続きやらなんやらやる事は多かった。
も例外ではなくペトラを本部まで送り届けた後も忙しなく働き通しだったという。連日立て続けに奔走した疲労はいつもの事だとはいえ流石に労いのひとつでもかけたいところ。
そんなこんなで今現在団長執務室に居る理由は最終報告書をエルヴィンに提出する為であり、別の用事で居合わせたハンジに眼鏡を借りたお礼も兼ねて紅茶片手に雑談に興じていたというわけである。
「今まで不休不眠でお疲れ様。眼鏡はあげるよ、いっぱい持ってるし」
「あんな汚いの要らないよ、返す」
「借りといて失礼な物言いするよね、君って」
「事実を言ったまでだよ」
そろそろお暇するか。「休暇も貰えず気だるい執務も待っている事ですし」と嫌味を忘れずは重い腰を上げ、ふたりに挨拶もそこそこに自室へ戻るのであった。
♂♀
――作戦決行日、別働隊side。
「はい、変装のお約束アイテム眼鏡だよ」
「……オイ、何故交換したばかりのレンズまで脂ぎってやがる」
「度なしレンズに交換した後わざわざ脂でギトギトの髪の毛を触らせてからレンズも触ってもらった至高のひと品。完璧すぎて私が卒倒しそう。これ即ち自画自賛という」
「よりによって用意したお前が汚いものを持つように摘むな。その汚ぇ眼鏡を掛けて卒倒するのは俺だろ。本物の浮浪者だろうともこんな視界が悪いままにしておかねぇだろうよ……」
「さてさて。手札を配るから早く不要なカードは捨て場に置いて。今回はババ抜きだからよろしく」
「たったふたりでババ抜き……クソ……服も臭ぇ上にこんなところで待機を強いられるとはな……」
「若くて新陳代謝が活発そうなオルオ君に寝る時までも3日間着続けてもらったワイシャツと敢えて汚したジャケットそしてズボン。変装に抜かりはない」
「流石の用意周到さに感心はする……だがもっとまともな作戦は無かったのか?」
「裏口は小隊が抑えている。表にはターゲット。残るは店の横にあるこのゴミ捨て場しかなかった。保険という名のおまけ組なんてそんなもんだよ。むしろ残り物には福がある、みたいな」
「アジト突入組の方が簡単且つ単純な見張りで済んだだろうな。戦力的にも少しは貢献できた筈だ。それを差し置いて何たってこんな不快な思いをしなきゃならねぇのか……」
「ゴミ捨て場に集る浮浪者はみすぼらしくなくては不自然なのだから我慢して」
「そりゃ分かってる。問題はアジト突入組なら臭ぇゴミ捨て場でトランプ遊びなんてする事なく普通の服装で普通に小隊と合同で作戦を遂行出来たんじゃねぇのかって事だ」
「四の五のうるさい男ですねぇ……指揮を任されたのはこの私、ゆえに貴方が不平不満をこぼそうとも決定権は私にしかないわけで。お得意の世を忍ぶ裏方仕事を選ぶのは道理というもの。この脳筋。右がババです」
「得意不得意は関係なしに出歯亀組を選んだ理由はペトラが居るからだろうが。……その手に乗るか。俺は右を取る」
「何言ってるの、私たちの配置が決まった時点ではペトラさんが巻き込まれるなんて思いもよらぬ。私はただ単に合コンなるものを見てみたかっただけ。此方を選んで正解だった……はい、アガリ」
「店内の様子も伺えん場所で遊んでる奴が何を……お前今イカサマしただろ。裾の中のババを早く出せ、この俺を欺けると思うなよ」
「あ、ペトラさんが出てきた。ひとりという事は合コンから逃げてきたのかな……」
「オイ、聞け」
「ターゲットの一部が動きました。追いましょう、ペトラさんが危ない。脳筋の本領発揮ですよ相棒」
「チッ……後で覚えておけよ相棒」
♂♀
自室に戻る道中、食いっぱぐれた朝食を取りに食堂へ赴いたは、閑散としたその中に先ほど話題に上がった人物たちを視認し足を向けた。
距離が縮まったところでの存在に気付いたのか、ふたりは同時に振り返り各々言葉を投げかける。
「今頃飯か? 何処で油を売ってやがった、冷めちまってるぞ」
「分隊長、おはようございます!」
「おはようございますペトラさん。いやはや、原因はハンジ」
中らずと雖も遠からずな手っ取り早い説明はさて置き、食事を終えたばかりであろうリヴァイとペトラに倣いカウンターからトレイを受け取ったも席に着く。
立ち上がらないふたりを見るにどうやら食べ終わるまで待ってくれるようだ。ならばと早々に匙を進めるである。
「昨日はびっくりしちゃいましたけど、助けて頂いて本当に感謝です……兵長が変装した姿は貴重でしたし」
「汚ぇナリする必要は無かったと思うがな……あのクソメガネのクソメガネを掛ける不快感は一生忘れねぇだろうよ」
「兵長は有名人なのだから特に気を使わないと成功率は下がります。然るべき処置だった。眼鏡も自然体が一番、変装とはそういうものですよ」
やはり話題は昨晩のものになる事は当然か。新たに調達する手間も綺麗な眼鏡を演出のため細工する手間も省き、わざわざハンジの物を拝借した甲斐あって浮浪者の変装は完璧であった。
ジャケットとズボンも数日前から着ては地面にごろごろ転がってよりリアルを追求したという。その周到さはどこか執念さえ感じた。なりのこだわりである。流石は幾度の単独任務を以下省略。
「張り込みとはその場に溶け込める服装でなくてはなりません。綺麗な身なりした人間が街路で急に立ち止まったり不審な動きをしていれば目立つからこそ浮浪者を装わなければ云々」
「一歩間違えりゃ職質もんじゃねぇか」
「心配には及ばない。表の人間も裏の人間も様々な人間が往来するこの街ではさして珍しくもないですし」
「なら別に普通の服でも良かっただろ」
「裏には裏の情報ルートが存在する。聞き込みにも如何に同類と判断されるかが重要であるからして――」
「情報収集はご苦労だったが、なぁよ……大層な御託を並べちゃいるがまさか俺の汚ぇナリを見てみたかった、なんて理由じゃねぇだろうな?」
「……そんなまさか。貴方が普段する綺麗な格好というイメージを崩してみたかったなんてそんな恐れ多いことを考えるわけがない」
「そうか。飯食ったら訓練場に行くぞ。その洗いたての制服のまま思う存分地面に転がしてやる」
「ナメてもらっちゃ困る。私はゴミ捨て場でも寝れる人間、故に服が汚れようともさして気にも止めないばかりか本当にごめんなさいちょっとした出来心だったのです許してください貴方との対人格闘の訓練は汚れる云々前に勘弁してください」
このふたりのやり取りは相変わらず不思議なものだ、と苦笑をこぼしつつペトラは昨晩から疑問に思っていた事を尋ねる事にした。
今にも取っ組み合いが始まりそうな雰囲気を断ち切る意味も込めて。
「そういえば分隊長は作戦中どこにいらしたんですか? 参加なさっていたとお聞きしましたが、もしかしてアジトの方へ?」
「…………」
「…………」
ペトラの努力が功を奏したというべきか、たんに天然と言うべきか。かくして無事に険悪な雰囲気を一掃出来たその場にはのどかな空気が訪れたという。
――その後、朝食も終え閑散とする自室へと戻ってきたは執務机に歩を進めながら一息吐いた。心中で休暇が欲しいとぼやきながら椅子に手をかける。
背後に設えられた窓からは朝日が降り注ぎ睡眠を欲する目は自然と細まった。この眩しさが今は忌々しい。
一頻り瞬きを繰り返すも最終的に瞑りたがる瞼を指で擦ってはこじ開け、欠伸をひとつ。
疲労も然ることながら迫り来る睡魔が体を鉛のように重くしている。それでもハンジに礼をし、ペトラの様子を伺ったりと律儀な行いは欠かさないところが彼女らしいというかなんというか。
些か埃っぽい空気を入れ替え、ついでに眠気覚ましにと窓を開ける。冷えた空気を吸い込めば徐々に覚醒していく意識。
そろそろ執務に取り掛からねば期限に間に合わなくなってしまうだろう、気だるさを押し殺し席に着いた。
そこで漸く見覚えがあるような無いような存在に気付くのだ。受け取った時はとてもではないけれど触り難く感じ指で摘んだ覚えのあるそれ。
だが今あるのはまるで買ったばかりな新品と見間違えるほど美しく磨かれた――
「……お言葉に甘えて頂戴するとしようかね」
恐らくここまで綺麗にするには骨が折れた事だろう。記憶に焼き付くほどの不快感からくる腹いせなのか、たんに己の潔癖からくる行動だったのかその真意を知ることは叶わないけれど。
机上で朝日を反射し輝きを放つ眼鏡がの気分を浮上させる嚆矢となったとは言うまでもない。
END.
ATOGAKI
やまなしいみなしおちなし。通称やおい。そんなお話でした。萌えアイテム眼鏡に手を出してみたかったのと、ハンジの頭は脂ぎっしゅという設定があるのだから当然眼鏡もヤバイに違いない、という妄想をば。
そしてそれを嫌々掛ける兵長。嫌がらせです。なんつって。
それと主人公の変装技術はご都合主義有りきなチートめいたものなのだと。なんとなく書きたかった。なんつって。気付いてもらえない複雑な心境は計り知れない。なんつって。