She never looks back
※今作にはグロテスクな表現が含まれております。冒頭を読んで無理だと感じた方はブラウザを閉じてください。
ちなみに読まなくともこれからの話の流れには影響しないと思いますので安心ください。おそらくきっとたぶん。
「あっははは、冷酷人間だぁ〜! 見てくださいよコレ! “彼”なんですよ!」
とても無垢で屈託のない笑顔を向ける団員が手に持つそれは、新鮮でいて赤黒い臓物。
もっと良く見て欲しいと持ち上げられ、ぐちゃりと生理的に不快な音をたてた。
――地獄だ。
「ずっとずっと、一緒だよ?」
否、彼女にとっては楽園か。なんにせよ幸か不幸か正気を失ってしまった彼女の表情はとても。
「愛してるわ、――」
とても、幸せそうだった。
―狂えぬふたり―
「――ははは、はは」
魘されすぎてとうとう気でも狂ったか。揺り起こす一歩手前で笑声を聞き手を止めた。
声の主はほんの数秒前まで苦しそうに唸っていたはずだ。
それなのに何故いきなり笑い始めたのか知る由もないリヴァイは怪訝に眉を顰める。
その直後、勢い良くまくられる布団。舞う埃に眉間の皺が深まった。
「……狂気の世界へようこそ」
次いで紡がれた不可解な言葉に固まる他ない。剰え視線を合わせてくるに逸らしたくなる気持ちを抑え。
「お前の冗談は正気の沙汰でないのは今に始まった事じゃねぇが……」
トチ狂ってもいない人間に歓迎されてもリアルさに欠ける、というのがリヴァイの素直な感想だった。
突然笑い始めたのも良くある『自分の寝言に笑ってしまう』その類かもしれないのだ。
だからこれも冗談だろうと結論づける。
どっかの誰かさんのお陰で奇行に寛容になってしまっている己が居る事に何も思わないわけではないが、その張本人と付き合うには必須のスキルであるからして、せめて己だけは普通でありたいと思う今日この頃。
たとえ寝起き一発目で寝言もびっくりな戯言を吐かれたとしても、常日頃冷静なツッコミをするよう心がけている。
だがしかし、反射的に彼女のノリに合わせてしまう事もしばしば。慣れとは恐ろしいものである。
今回は冷静さを保つ事に成功したが、このままこのノリが続けられるのであればノってしまうかもしれない。
そんな不安が脳裏を過ぎるさなか。狂ってもいないいつも通りの無表情なが再び口を開くのだ。
「狂えたら楽なんだろうねぇ」
正気そのものの彼女から発せられたのは、なんとも意味深な言葉である。一体どんな夢を見ればこんな結論に至るのか――なぞと素知らぬふりを装うことはしない。
彼女が言いたい事は嫌というほど理解できるからこそ、ノらずに一蹴するなんて他の誰でもない、己がしていい事ではないのだ。これは義務ではない。己自身がしたいとも思っていないだけで。
「まずは正気を削る事から初めてみたらどうだ」
「……慣れとは恐ろしいねぇ」
「奇遇だな、俺もそう思っていたところだ」
「そう。お互い難儀なものだね」
「まったくだな」
「まったくだね」
リヴァイは冗談めかして発せられた言葉の真意を知っている。何故なら。
(気が狂う人間は何人も目にしてきた。地下でも、ここでも)
先日の壁外調査で、心が壊れてしまった団員がひとり居た。壁内の門前で死亡フラグを立て律儀に回収した男の恋人だ。
『生きて帰ってこれたら結婚しよう』。良くある誓い。残酷な世界に抗えず志半ばにして果たせなかったそれ。
返り血にしては不自然なシミを制服に着け、に支えられて合流したその団員を見た時はみな一様に驚きに目を見開いたものだ。
人間の血を浴びるのは珍しくもないこと、しかし全員が目を留めた箇所は赤黒く染まった制服なぞではなかった。
それよりも上部に位置する場所。最も異彩を放っていたのは、顔の半分、主に口の周りに塗られた夥しい、赤色。
何をどうすれば、なぞという疑問はその場に居た誰ひとりとして浮かばなかった。
想像が直接事実に結びついてしまったのだ。微笑む口元から覗く鮮血まみれの歯、そこに挟まれた柔らかい『何か』。
人肉嗜食――俗に言う”カニバリズム”だという事は容易に察しがついた。
さしずめ恋人の亡骸を見つけてしまった事で正気を失い、その行為へと至らしめたのだろう。
隣に寄り添うみなが嫌悪する存在である冷酷人間は眼中になく、全員がその笑みに釘付けとなる事態に陥るほど不気味さを醸し出していた。
今思い出しても鳥肌が全身を覆う。仕方がないとは思うものの、一度見てしまった光景は簡単に忘れる事ができずにいる。
リヴァイ然り、あの場に居た団員の中にはそれとは他に異様さを助長するようなもうひとりの存在を目に焼き付けた者も居るのだろう。
笑う団員とは対照的に、不自然なほど冷静なの姿を。普段となんら変わりのない冷酷人間そのものの彼女を。
献身的に介抱するでもなく、ただ団員に肩を貸すだけの姿が何よりも不気味だったとは、口が裂けても言えなかった。
「よくもまぁ……狂わずにいられたもんだな、よ」
我ながらに回りくどい言い方だとは思う。根掘り葉掘りとまでは言わないが掘り下げていい話題ではないとも分かっている。しかし先にこの話題を仄めかせたのはの方だ。
ならばお望み通りノってやろうじゃないか。それがたとえ悪ノリに該当するものだとしても。
彼女の口から語られてはいない。だが、リヴァイには何となく予想がついていた真相を。
「巨人に食われる人間は嫌というほど見てきた。けれど」
こいつはどうしてこうもタイミングが悪いのだろうか。
リヴァイは全く以て嬉しくもない予想的中に眉間を揉みながら耳を傾けた。
「……流石に食人の現場を目撃したことはなかったねぇ」
やはり、は居合わせてしまったのだ。団員が恋人の臓物を食す瞬間に。
まるでふたりの愛を見届ける立会人のように。目を背ける事も許されず、ただ淡々と。
それは想像を絶するほどの光景だったに違いない。巨人の驚異に晒されている世界で、あろう事か人間が人間を食う現場なぞ目の当たりにするとは。
世の中には食人を趣向とする人間も存在するが状況が違えば印象も変わる。
見てはいけないものを見てしまったと偏に目を逸らす事もできなかった彼女の境遇を思えば、下手な言葉を投げかけられる道理はなく。忘れろと無責任な慰めを口にすることも憚れた。
「何、というか」
無表情に嵌め込まれた眼球が天井を眺める。虚ろでもなく、かと言って意志が篭っているようには見えないそれが微かに揺らぎ瞬きをひとつ。
何を言わんとしているのだろうか。一文字一句聞き逃すまいと見遣ると、が続けた。
「食人現場を目撃したことは勿論、忘れられそうにない事柄だけれども……それを凌駕するほどの感情が、あったのも事実で」
彼女は怖気が走る光景を目にして、それ以上に感情を揺さぶるものがあったのだと宣う。果たしてそれは何なのか。
流石のリヴァイも分からないの”真理”に程近い、感情。その片鱗。
「不謹慎にも少しだけ、羨ましく思ってしまったんだよねぇ」
「っ…………、……」
何を言っているんだ、こいつは。開いた口から声を発する事が出来ず、ただ徒に呼吸を繰り返す。
は、羨ましく思ったらしい。笑いながら嬉しそうに恋人の臓物を食す姿を見て、あろう事か、羨ましいと。
彼女にカニバリズムを嗜む一面があったのだろうか。実は一度でいいからやってみたかったんだよねぇ、なんて緩い口調で言い始めるとでもいうのか。
一口だけでいいから、なんて。その時はどうしろってんだ。ノるべきなのか、それとも冷静にお断りするべきか。
(いやいや、待て待て待て。まだそうと決まったわけじゃない。落ち着け。冷静になれ。こいつは羨ましく思っちまっただけで正気だ。
あの場では少しばかり狂気の世界に片足を突っ込んだかもしれんが『今』は紛うことなく正気であるからして云々)
心なしか顔を青ざめるリヴァイを横目に、は柔らかく細めた瞳を向け、言った。
「だって、あの地獄のような世界でとても、それはもう人生の全盛期と言わんばかりに――幸せそうだったから」
あぁそうか。彼女はただ純粋に。やましい気持ちなぞ毛頭なく、ただただ純粋に”幸福を噛み締める姿”を羨ましいと思ったのだと。
疑ってしまった己の浅ましさに自己嫌悪するリヴァイである。穢れた大人ですまなんだ。
「これが冗談だとしたら、それこそ正気の沙汰じゃないって奴だよねぇ。流石に笑えない、か……」
「いや……狂ってんのは俺の方だ」
「え。何事。どうしたというの」
「深くは突っ込むな……いや、突っ込みたいのは山々だが」
「おい? 食いちぎってやろうか? シリアスな流れでよくもそんな下ネタが言えたな?」
「よせ。カニバリズムは趣味じゃねぇ」
「ハァ……私もだよ」
瞳の色を呆れに変え起き上がる。乱れたワイシャツの襟首を視界に入れながらリヴァイもそれに倣う。魘されていたからだろうか、項には汗が滲みそこはかとなく欲情を煽った。
(一度考え始めると止まらなくなっちまうのは俺の悪い癖だ)
以前はそれが原因で戒めを賜った事例もあることだ。沈まれ俺の何か。
いくらが寛大な心を持っていようともこれほどまでに不謹慎という言葉が当てはまる例は見たことがない。
つい今しがたまでの繊細な部分に触れていたというのに、最低だ。
病んでしまった団員の件もある。なんて。昂ぶりを抑えながら、歯止めが。
「お互い正気の沙汰じゃないね、リヴァイ」
甘噛みを許容しながらは笑声をこぼす。幸せを羨むのはリヴァイも同じなのかもしれない。
白い項に歯を立てているのが、その証拠だった。
「あぁ……らしいな」
これが冗談の範疇で留めておけることを、切に願う。
♂♀
「はは、あははは――あはははははははははは!!! 嬉しい! わたしすごくうれしいの!! わたしたちはずっと、ずーっといっしょにいられるんだもの!!! あははははは!!」
腕は引きちぎられ、顔の右半分を失った団員の死体を見ては悟る。
到底、搬送できる状態ではないと。剰え巨人とは別の、人間の手によって受けた損傷は見るに堪えない有様で。
「……本隊と合流しましょう」
「ねぇ見てて? わたしたちの愛を! 早く帰って式を挙げなきゃ! 約束したんだもの!」
「えぇ……そうですね」
「いっしょに帰らないと! 待ってて、いま、いっしょに――」
なんて美味しそうに食すのだろうか。その姿は悍ましいものであったが、無我夢中で名状しがたい咀嚼音をたて貪る彼女の幸福に満ちた顔から目が離せず、立ち尽くし淡々と帰り支度が終わるのを待った。
そして、誰に言うでもなく言葉を紡ぐ。
「このような形の幸福は、果たして幸福と言えるのか……」
決して解を求めることができない問い。それは誰に向けたものだったのか。
否、まるで自問自答。残念ながら、やはりの記憶に答えは存在しない。
ただあるのは胸に灯る暖かな気持ち。記憶の中で感じた温もり。
今ではもう、恐ろしくて自ら手を伸ばすことができなくなってしまった、それ。
けれど、これだけは理解できた。が確かに覚えている幸福とは、目の前で笑う彼女が感じているものとは異なるものであると。
たとえ幸福というものは人それぞれの形があると知っていても、疑問を禁じえなかった。
(本当に彼女は、幸福なのだろうか)
精神が崩壊し、発狂してしまった彼女は。
「これで、これでいっしょに、かえれるよ。早くかえって結婚しよう、――」
満足のいく準備を終えたのだろう、彼女が生気なく立ち上がる。その顔は変わらず幸福に彩られ、対照的な口元の鮮血と相まり異彩を放ち。
「そうだとしても、私には――あの人には、手にすることが出来ない代物なのでしょうね」
もし正気であった頃の彼女が望まぬ形だろうとも。あぁ――羨ましい。
純粋に心の底から歓喜する姿が、とても。己が知りえない幸福を手に入れた彼女が、とても羨ましく思う。
肩に彼女の腕を回し歩を進め、止まない笑声を聞きながらもまた、口元を歪め。
「ははは、はは…………ごめん、なさい」
つられるように笑い、謝罪を繰り返すのだ。
幸福を拒絶する己が彼女のそれを推し量ろうなぞと、不躾なマネをしてしまった事について。
同時に疑問を持つことは冒涜行為そのものであったと理解する。
END.
ATOGAKI
狂うことなぞ出来ないふたり。不謹慎だけどその先に幸福があるのなら試さずにはいられない。たとえ偽りの幸福だとしても、実物を手にすることが叶わないふたりの悪足掻き。
そして不謹慎な行動を正当化なんて出来るワケもなく、またひとつ傷を作る狂えぬマゾヒストたち。