She never looks back
――己の生きる環境が如何に粗悪か十二分に理解している男の話。
「やったな、リヴァイ。今夜はご馳走だ。奮発して地上で有名な牧場の肉を買い付けよう」
「どれも同じだろ。地上のもんならな」
「そうじゃない、かの有名な高級レストラン御用達の高級食材なんだ。期待してくれてもいい」
「……好きにしろ」
仲間の浮き足立った声を聞きながら足早に賑やかでいて鬱屈とした通りを進む。
ここは本物の光が射さない街。とある商人は傲慢に、強欲に悪事を働き。とある力無き者は物悲しくも絶望に身を委ね気無精に蹲る。
ところかしこで見かける女の着飾るドレスもプライドもとても滑稽でいて、無性に眩しくもあり。
小さなガキが死に物狂いで走り抜ける先に“何か”があるのならば、きっとそれは実用書という名の現実だ。
いつかの面影を重ねながら、仲間と酒を飲む時間の儚さに己の所在を問う。何度でも。幾度となく。馬鹿の一つ覚えのように。
俺の生まれ育った街は、朝も昼も夜もない人工的な光で彩られた地下の――掃き溜めだった。
――己の生きる環境が恵まれたものなのだとまだ知る由もない少女の話。
「焼き加減、舌を肥えさせる味付け、そしてなにより見栄え……は兎も角として、大人顔負けの腕ねぇ。将来が楽しみだわぁ。ねぇ、お義父さま」
「……フン。まだまだひよっこだ。とても客に出せるものじゃあない」
「またまたぁ、素直じゃないんですから。うふふ。ちゃん、お祖父様はこれでも褒めているのよ」
「褒めとらん。褒めとらんぞワシは」
厳格でありながら華のある店内にて身分や地位の高い人間が優雅に品格を纏い食事を口に運んでいく。
ここは尊厳と欺瞞に溢れる街。とある貴族は傲慢に、強欲に権力を振りかざし。とある兵士は薄汚れた金を手に夜の街へと消えていく。
見渡せずとも目に付く煌びやかな服もプライドもとても高貴でいて、無性に虚しくもあり。
驕傲たる姿勢で馬車に乗る幼い子供たちが進む先に“何か”があるのならば、きっとそれは夢物語という名の現実だ。
見慣れた面影を横目で追いながら、擬似的な家族と共にする食事の尊さに己の所在を問う。何度でも。幾度となく。馬鹿の一つ覚えのように。
私が新たに暮らす街は、本心も偽りも光も本物で彩られた地上の――掃き溜めだった。
―忘れることなかれ、過去から繋がる今へ―
豪華絢爛な夜会。テーブルに並ぶ贅沢の限りを尽くした食事、腹の探り合いを笑顔の裏に潜ませながら交わす社交辞令。
立食パーティーだからこそ自由に行き来できる社交場は、貴族と商会諸々の人間で溢れていた。
無論各兵団の者も紛れている。その中でも異彩を放つは調査兵団団長のエルヴィン、そして兵士長のリヴァイだ。
彼らは投資家やら商談やら主に資金集めに精を出すべくここに居る。権力者が集う場は会議を置いて絶好の機会であるからして。
それはさて置き。毎度こういった場でリヴァイは顕著に確信させられるものがある。共に調査兵団に所属する人物、・の育ちの良さだ。
貴族に対しての立居振る舞い、どこに出しても恥かしくないテーブルマナー、相手の尊厳を敬う柔らかな物腰。
一切の隙を許さずそれでいてさも当然の如く自然にこなしてしまう姿が、どこか遠い世界の人間に見えてしまうのだ。
(外見は確かに“別人”だが……)
そこはかとなく感じる胸の締めつけにひとり息を吐いた。誰も居ないテラスで、夜風にあたりながら。
(いくら裏世界に身を置いた経歴があろうともたかが2年半の出来事だ。それよりも長く培われた仕草は“本物”に変わりがない。レストランでしこたま叩き込まれたんだろう)
空のグラスを意思なく揺らす。ここで落としてみせれば、少しでも彼女は此方に意識を向けるだろうか。
(どんなに苦い過去があろうと、それさえも糧と言わんばかりに喜んで技術を行使している。自分が今ここで役立っていられるのも経験あればこそのものなのだと。心なしか生き生きとしてやがる)
――果たして己は、人類の希望だと持て囃されこんなところで贅沢を許されるべき人間なのだろうか。
(あいつは今も尚、自ら手を汚し影の中を生き、唯一安堵に身を委ねられる聖域にでさえも悪夢に魘されながら布団の中で震えているというのに……俺は、)
は今までリヴァイの立ち振る舞いに苦言を呈した事はない。テーブルマナーに限らず素行でさえも。力技はその限りではない。
リヴァイは己の作法が目を当てられないほどに悪いとは思っていないが、賛美される程良いとも思っておらず。
素行――と言うより仕草と言ったほうがいいかもしれない――に関しては、一挙手一投足潔癖も相まって割とまとも、だと。思っている。
乱雑なところはあるが、やはりそれを指摘された事はなかったので問題はない、筈。
こうも出身が違うというだけで普段は気にもとめない事柄を考えさせられるのは如何なものか。
ある種のコンプレックスというものなのかもしれない。――くだらない。そうは思うものの、彼女の様子を見てしまうと如何せん気になってしまう。
(チッ……相手はあの干物女だ……だが女子力が無いだけでいざと言う時は涼しい顔して行儀作法を発揮しやがるときた……)
大人なのだから当然だ。しかし普段の様子を見ているリヴァイにとってこの変わり様は違和感を生む要因でしかなく。
否。今まで彼女は粗暴だったわけではない。かといって優雅とは言えないが、その片鱗はところかしこに垣間見えていた筈だ。
決して気品に溢れているわけではないまでも、確かに。それもその筈、嫌というほど叩き込まれたものは意識しようとも出てしまうものだ。
それを“癖”というのだろう。己を形成する一部分であるからして、そう簡単に失われるものではない。
(真逆の役を演じている時はさすがにコントロールしているようだが……やはりやり易いのはこっちか)
女らしさとは異なる挙動。決して男性的ではない。良くも悪くも中性的でいて、汎用性抜群の技能。
身につけられた事は幸運というべきか。しかし育った環境が恵まれていたとは一概にいえまい。
そこには並々ならぬ努力があったのだろう。英才教育と一括りにするには酷な環境が。5歳まで一般家庭で育てられたのだから尚の事。
でなければ料理然り、咄嗟だろうとも長時間だろうとも雅馴な態度を保てるわけがない。
疲弊こそすれど限りなく“素”に近いのがこういった場であり、望むでもなく幼少期に叩き込まれたからこその今なのだ。
華々しく賑やかな室内をテラスから窺いつつリヴァイはため息をひとつ。己には窮屈なだけの夜会だが外でひとり静かに時を過ごせているのだからまだマシな方だと言い聞かせる。
結構なことだ。彼女は持ち前の技能を存分に発揮し、己は為すべきことをこうして為している。これ即ち適材適所。とは、思うものの。
「……落ち着かねぇな」
一体何に対して。己に問う。まったく甚だ不毛である。呆れる他ない。
少し、感傷に浸りすぎたか。まるで身分違いの間柄かのような姿を見せつけられ、まるでひとり取り残されたかのような感覚に陥った、と。
なんて馬鹿馬鹿しく不毛なもどかしさだろうか。今更だ。別に初めて見るわけではないにもかかわらず。リヴァイは人知れず自嘲するように眉を上げた。
そろそろ喉が渇いた。飲み物でも取ってこよう。その合間に普段は拝めない偽物の笑顔でも盗み見るのも悪くない。
そう思い立ちテラスから室内へ通ずる扉を振り返る、その瞬間――。
♂♀
「これはこれは、調査兵団のエルヴィン・スミス団長様ではありませんか」
「あぁ、ベーレンス家御子息の……今夜はやはり商談を?」
「お察しのとおりでございます。つきましては是非とも貴方様に有益なお話を――」
どこからどう見ても自然なやり取り。周囲が耳をそばだてている事を知りながらエルヴィンはそつなく言葉を紡ぐ。
同時に緩やかなウェーブがかったブロンドのショートヘアを揺らし、どこか人懐っこい笑顔を向ける青年を見つめ返しながら心の中で苦笑をひとつ。
(時々、自分は誰と話しているのか分からなくなるな)
普段の姿を忘れそうになる程、全くの別人と形容せざるを得ない変装はいつ見ても圧巻だ。
本当に己は目の前の人物に隠語を口にしても良いものか。己の駒である人間にしか通じないそれを。
実は事前の打ち合わせで決めていた目印が偶然にもかぶってしまっただけの別人なのでは。なぞと不安に掻き立てられることもしばしば。
「今夜はとても有意義な時間を過ごせていますよ。ベーレンス家も安泰、といったところです」
「それは何より。是非我が兵団も肖りたいものだ」
「もちろんですとも。調査兵団は人類の希望ですから」
表には出さないが。聡い彼女のことだ、勘付いているかもしれない。と、今一度苦笑をこぼした。
「して、かの有名な兵士長様もお見えになっていると聞き及びましたが……」
そんな彼の心情を知ってか知らずか――恐らく前者だろう――目の前の人物は笑顔を絶やさず会場内を軽く見渡しながら問いかけてくる。
エルヴィンはこの一連の仕草が何を意味するのか把握しているつもりだ。調査兵団とベーレンス家間で取り交わされた商談における周囲の反応を窺うそれなのだと。
しかしなかなかどうして別の意味を勘ぐってしまうのか。純粋に彼を気に掛けているのではないか、なぞと。
(口を開かなければ自ずと人を惹きつける存在、というのはこの場において好都合ではある。だからこその采配だ。それは飽く迄も“兵士長”という立場であればの話だが……いかん頬が緩んでしまうなよさないか俺の表情筋)
「彼なら昨日から体調を崩していてね。夜風にあたるようテラスへ」
あたかも思案をめぐらしているように見せながら口元に手を添え、リヴァイが居るであろうテラスに目を向ければ幸か不幸か――
「おや? 先程までガラス越しにグラスが見えていたんだが、飲み物でも取りに会場内をふらついているのかもしれない」
「では探し出して今後の交渉を有利に運ぶ為にもご挨拶させていただくとしましょう」
どうやら心配は杞憂に終わったらしい。既に彼へ意識を向けていた彼女がエルヴィンの思惑なぞ知る由もなく人の叢りへと姿を消す。
(やれやれ。役目を終えた途端に私情に走るとは……微笑ましい限りだ)
まだまだ夜会は終わらない。いくら任務自体はエルヴィンとの会話で完遂したといっても演技を解くには早く。
まぁ彼女もそこら辺は十二分に心得ている筈だ。心配は野暮というものだろう。
終始神経を使う場で僅かに肩の力が抜けたエルヴィンは引き続き会場内を進む。彼の役目は帰るまで終わらない。意識は自然と次の標的へと向けられ――。
――室内へ戻ろうと振り返った瞬間に開いた扉の奥には、見知らぬ女性が立っていた。
「あら、おひとりなの? いい男がこんなところで独酌とは勿体無いわ。それとも、喜ぶべきかしら」
正直に言おう。己は疑う余地もなく落胆している、と。
「……気分が優れないから居ただけだ」
「あら、そうでしたの。見たところおかわりを取りに戻ろうとしていたみたいね。良かったわ、ワインとお水両方持ってきたのよ。これでお酒弱いアピールは無効になってしまったけれど」
口説き文句のつもりなのだろう。しかし今のリヴァイに通じるわけもなく。理由は至ってシンプルだ。
もしこの美女と共に居るところを目撃されでもしたら。即ち気が気ではないリヴァイである。しかし擦り寄られても立場上無碍にできない歯がゆさに為す術もない。
先程まで数人のご令嬢を相手にしてきたが、こうも積極的な人間は居なかったと記憶している。戻ってこい淑女たち。
いくら退屈な話でも今なら喜んで相手になろう。
それにこのご令嬢は確か――。
――視点は変わりもうひとり、心中穏やかでは居られぬ人物が。今まさにリヴァイの危惧していたことが現実のものとなった瞬間であるとは彼にしか知り得ない。
(可能性を考慮していなかったわけではない。むしろ役目のひとつでもある。交渉を少しでも有利にするべく連れてきたのだからむしろ諸手を挙げて喜ぶべきだ。やっちまったな私! まさかご令嬢ホイホイの為に配置したリヴァイの仕事中である擬似的密談の場に鉢合わせてしまうとは!)
金に塗られた取っ手を掴んだまま固まる人影。今しがたエルヴィンと別れたばかりの緩やかなウェーブがかったブロンド以下省略。
全身を隈なく観察しても青年にしか見えないが、その実変装したというのは言わずもがな。
彼女が何故硬直しているのか。今はどういう状況なのか。
隠すまでもない、彼女はただ取っ手を掴んでいるだけではなくあろう事かそのまま扉を押し開き決定的瞬間に立ち会ってしまっているのだ。
腕は伸び体を横に向け真っ向から色事一歩手前な光景を目撃している次第である。オゥジーザス。お邪魔しましたすみません。コレなんてデジャブ。
もしかして任務妨害になるのだろうか。ならば厳罰ものだ、減給ものだ。さぁ可及的速やかに撤退し何事もなかったかのように続きを致してもらわねば。証拠隠滅? イグザクトリー。
なぞとふざけた事を考えている場合ではない。同時に証拠隠滅が出来る筈もない。レ・ミゼラブル。
そうこう思考を巡らしている内にも時間は刻一刻と過ぎている。なんてこった。
言うまでもなく誰の目にも明らかに疑う余地もなく完全完璧に撤退のタイミングを見失っているというわけで。
死線やら裏世界やらを渡り歩いてきた筈のが瞬時に気持ちを切り替えるでもなくスマートな立ち振る舞いを披露するでもなく、目に見える程に動揺しているなぞ
――俄かに信じがたし。いやはや。無念。
だがそこで心折れるではない。微動だにしないリヴァイよりも先に我に返る方が早かった。
「あ、あ〜すみません、僕お邪魔でしたよね。水を差してしまったようで申し訳ないですではごゆっくり」
少々時間を要したが確と貴族の御子息役を崩すことなく口速に捲し立てこの場を退散しようと試みる。のだが。
「待て、お前は確かベーレンス家の者だったか」
訂正しよう。我に返るのが先だったのはリヴァイの方だと。彼は硬直していたわけではない、いち早く冷静に戻り別のタイミングを見計らっていたのだ。
その証拠に声、態度共に落ち着きを払いこの状況を打破せしめる発言をした。
渡りに船とはこのことか、はたまた。失態が帳消しになりうる可能性を見逃さず、はここぞとばかりに乗船するのである。これを便乗という。
「おおっと、誰かと思えば兵士長様ではございませんか。良かった、丁度捜し倦ねていたところなんですよ」
「そうか、手間を取らせたな。エルヴィンとはもう話をしたのか?」
「今しがた終えて兵士長様にもご挨拶をと思っていた次第です。――ややや、これはこれは……確かゲゼル家嬢でしたか? 失敬、少し彼とお話しさせていただいても?」
すぐさま冷静なリヴァイに感化され平静を取り戻し、彼のお相手を確認すればなんと調査兵団に利益を齎さぬお家のご令嬢ではないか。
そうと分かれば話は早い。兵士長様に取り入りお家の繁栄を企てるその思惑を阻止しなければ。故に言外に告げる。ご退場願おう、と。
「……一時はどうなるかと思ったけれど助かりました。恩に着ます」
「お前ともあろう者がらしくねぇ……クソでも――」
「役目を終えたばかりで少し気が抜けていた事は否定しません」
「言葉を遮るんじゃねぇよ。最後まで言わせろ削ぐぞ」
「解せぬ」
「冗談だ。ハァ……まだ本調子ではないようだな。少し頭を冷やしたほうがいいかもしれん」
「……解せる」
人払いも済んだところで蹲りこうべを垂れる。その傍らで壁に背を預けながら見下ろすリヴァイ。
先程までの空気が嘘のような変わりっぷりに嘆息する他ない。
なにもそこまで落ち込まずとも事なきを得たのだ。しからば結果よければ全て良し。的な。
やれやれと呆れながらリヴァイは不本意ながら増えてしまったグラスの片方を差し出した。
水と共に全てを飲み下せと言わんばかりに。
「何故にグラスふたつ持ち……空いたグラスは置いとかないとだよ初心者なの」
「バカ言え、そんくらいのマナーは持ち合わせている。返しに行く前にさっきの女から貰っただけだ」
「そ、う……」
受け取ろうと伸ばした手が僅かにぎこちなくなる。思うところがあり躊躇したように見えた。――否。
なんとはグラスを掴んだ手を素早く引き寄せ鼻先で揺らすと、なんの躊躇いもなく床に放ったではないか。
「…………」
そんなに他の女から貰ったという事実が気に食わなかったのだろうか。なぞと見当違いな事を考えている場合ではない。
立ち上がりリヴァイを見据えるは冷静且つ沈着に疑問を投げてきた。
「リヴァイ、まさかとは思うけれどこれに口をつけたの」
「いや……タイミングが無かったからな、乾杯さえやらず終いだ」
本調子に戻ったようでなにより。神妙な面持ちで散らばったガラス片と液体に視線を移し息を吐く横顔を窺い安堵する、のも束の間。
「貴方こそ気が抜けていたのでは。ひとり悠々自適にぼっちタイムをエンジョイして剰え無用心にも初対面の人間から飲み物を頂戴するなんて怠慢にも程がある。
ここは飽く迄も敵地だということを認識し直して、このあんぽんたん」
「……すまない」
結構な剣幕で怒られてしまった。己のことを棚に上げて、とは言えまい。何故なら素直に謝罪を口にしたリヴァイもまた察しがついたからだ。
「種類によるけれども嗅ぐだけで即効性を発揮する毒薬も存在する。これは立場を考えれば向精神薬、あるいは麻酔薬……いや、どうだろうか……もし……でも……」
ブツブツと独り言を呟きながら思案に耽るはさて置き、ゲゼル家のご令嬢は大胆な事をなさる。まさか兵士長様に薬を盛るとは。
が憤るのも道理である。
矛先は被害者側のリヴァイに向けられているようだが甘んじて受け止める他ない。
「お前は平気なのか? 微量だろうとも嗅いじまったんだろ」
こともあろうにそれをに差し出してしまったのだから尚の事。むしろ自責の念に駆られた。これで何かあれば謝罪だけでは済まされまい。
だが心なしか険しい顔で考え込んでいたはリヴァイの声に頭を上げると、覗き込むように目を合わせてきた。
「現時点で体に異常は見受けられないと言うことは服用しなければ問題ない類のものだった。後に来る可能性もあるけれど恐らく大丈夫だと思われる。
……どうしたの、いつもの貴方らしくない。こんな初歩的な事にも気が回らないなんて……なに、本当に具合が悪いの」
リヴァイの懸念も然ることながら職務怠慢を指摘したかと思えば今度は体を案ずるとは忙しいものだ。
頭ごなしに怒って悪かったと言外に告げる真摯な瞳に、他のことに気を取られていたなぞ正直に言えるバズもなく。
かといって嘘で誤魔化しても見透かされるのがオチで。
「そう、だな。思考回路の具合は悪い」
「水は床じゃなくて貴方にぶっ掛ければ良かったね」
いつもの辛辣なツッコミが身に染みた瞬間である。の呆れ顔が「つまりはどういう事なのか」と追及する様子は無かった。すまない。
「事なきを得たのだから不問に処すとして……それにしても本当に大胆な人だったねぇ。こんな公の場で薬を盛るとは……ちょっくらゲゼル家壊滅させてくる」
どうやら彼女は嗅がせてしまった件については気にも留めていないが、憤りは継続中らしい。
踵を返し本気で有言実行しようとする体を透かさず引き止めるリヴァイ。
「待て。本当に行こうとするのはよせ。そんなこと今回の作戦には無かっただろ。予定外の行動をすれば後でエルヴィンの野郎にどやされかねん」
「いやぁ、ほんの少し牽制するだけですよ。ははは」
「役に戻るなベーレンス家の者に怒られるぞお前」
余談だがは現在ベーレンス家子息を演じている。無論快く了承してくれた当主は室内に居り、このまま他家の者と揉め事なぞ言語道断。
いくら寛容な当主といえど問題を起こせば見限られる可能性も出てくる。それが分からないではない筈なのだが。
「このままでは私の気が済まない。どうしてくれる」
とは言うもののいつもの無表情ながら腸は煮えくり返っている様子で、さすがのリヴァイもどうしたものかと思案に暮れるハメに。
「……どうするも何も放っておけ。お前が頭にきてるのは分かるが今は身分を借りてる事を忘れるな。“事なきを得た”んだろ? 毒薬でもねぇもんに兎や角言わず余裕を持て」
狭量とは言わない。何故ならの憤りを理解しているからだ。こと飲食に関して薬を盛るという行為に過剰に反応してしまうのも道理だと。
だが今は押し留めるべき感情だ。酷な事を言っているとは思うが、には余裕を持ってもらわなければならない。今だけではない、今後の為にも。
「目には目を歯には歯を薬には薬をだよ。なぁに、おイタをしたご令嬢に少しお薬を与えるだけさ」
ある種のトラウマというべき過去。故にの理性という名の枷は揺らぐ。冗談めいた口調、しかし体は今も尚リヴァイの腕を振りほどかんと力んでいた。
人間誰しも譲れないものはある。それは十二分に理解しているつもりだ。彼女の好きにやらせたいとも思う。
だが、ここで止めなければ彼女自身が後悔してしまうだろう。
だからこそリヴァイは決死の説得を試みる。
ちょっとやそっとの説得では効果はない。
故に、彼は告げるのだ。この瞬間だけ羞恥を捨て、渾身の一言を。
「俺の、為に……喧嘩は……よせ、と言っている」
どこかで聞いたようなフレーズだが躊躇している暇はない。葛藤は垣間見えるが。腹をくくれ。件の事柄を自身に置き換え、の意識を揺さぶり関心を得る為に。
「………………あ、うん……ごめん……」
努力が功を奏したようで心なしか唖然とした視線がリヴァイに突き刺さる。発言した本人でさえ固まっているというのにノリの良いまでも固まるなと言いたい。これ切実。沈黙が痛すぎる。
「(怒りは収まったみてぇだが……どうすりゃいい……俺は今酷く羞恥を感じている)」
「(わたしは しょうきに もどった)」
夜風が思い出したかのようにふたりの間を吹き抜ける。
扉越しから僅かに漏れ出る賑やかな騒音も然ることながら両者とも互の出方を窺っているようにも見えるこの場をどう落とし前つけようか。
なぞと考えあぐねている時間は無かった。
「お話は済みましたの? 何かが割れるような音がしたけれど――」
幸か不幸か先ほどのゲゼル嬢、再来。彼女は無遠慮にテラスへ足を踏み入れ有無を言わさずといった様子でふたりの傍までやって来た。
もう待ちきれない。さっさと席を譲りなさいよ。言外に訴える。
瞬時に腕を離すか考えるも、野郎が野郎の腕を掴んで引き止めているという光景はちょいとよろしくない。こんな人気のない場所で。
目立たぬようこっそりと腕を組むリヴァイである。
も何事もなかったかのように役に戻り、ニコリと微笑んでみせる。のだが。
ゲゼル嬢の視線の先には割れたグラスに床の水たまり。ぬかった。みるみる内に表情が強張るサマを見ては内心で冷や汗を流すのだ。
次いで鬼のような形相で睨めつけてくる彼女から、発せられる言葉に備え身構える。
「まさか貴方、私が兵士長様の為にお持ちした飲み物を台無しにしてくれたのかしら? ならばこれは私への冒涜行為だわ! 折角お近づきになれると思って用意したのに、卑劣な妨害行為よ!!」
ですよね。そりゃ疑われますよね。先程は強引にも追い払ったのだから。
ちなみに、リヴァイが何故テラスに配置されていたかと言うと。ご令嬢ホイホイもとい標的の方々とテラスというある意味での個別空間でお話をする為である。
擬似的個室で密談よろしく交渉を有利に円滑に運ぶためにこのような采配がなされた、というわけだ。
「うふふ、わたくし兵士長様とお話できて嬉しい。噂は耳にしておりましたが実物はこんなにも素敵な方だったんですのね。お父様にお伝えしなくちゃ」
「計画通りなう」
そんな感じ。
噂の人類最強がひとりで居る機会を逃さんと近づく輩は少なからず存在する。それを見越した上での作戦。
ご令嬢のみならずその他の人間も標的対象である。余談だが結果は成功したとの事で。
説明はさて置きそのホイホイに望んでもいない家のご令嬢がホイホイされ、不本意にも此方の作戦通りお話しするしかなかったところを偶然にも遭遇しそのまま邪魔だてしたのは本人だ。
そして彼女の計画を知り阻止した。
つまり、ゲゼル嬢は交渉を邪魔された挙句リヴァイに飲ませる筈の薬入りの水を台無しにされ憤っているというわけで。
彼女の頭に『事故でグラスを落とした』という考えは無いらしい。
みな考える事は一緒なのだ。兵士長様とお話をするという事は男女問わずそういう事なのである。
モテる男は辛いね。なんてね。
はてさて、追い払ったかと思えば戻りヒステリックに喚き散らされている現状をどう打開すべきか考えなければならない。
彼女の矛先があろう事かに向けられてしまった事も踏まえて。いやはや困ったものです。
「ベーレンス家だかなんだか存じませんが、このゲゼル家を愚弄した罪はいくら謝罪しようとも償えないわよ!! 覚悟しなさい、今お父様に言って一族もろとも地下街に放り込んでやるんだから!!!」
「あいや〜……ソレダケハ ゴ勘弁ヲ」
「今更命乞いしても遅いわよ!!」
ご令嬢も必死だ。ここは何としてでも兵士長様と関係を結ばなくてはならないのだから。だが彼女の言動は目に余るのも確かで。
目的のために手段を蔑ろにしているのでは。お目当ての兵士長様の前でどえらい剣幕ですこと。
まぁ何が起ころうとも結果は変わらない。彼女がどんなに頑張ろうとも調査兵団がゲゼル家と仲良しになるなぞありえないのだから。
「(世間知らずとでも言うべきか……あのエルヴィン団長がそんじょそこらの家名を拝借する筈がない。コレ即ちゲゼル家よりもベーレンス家の方が立場が上なわけで)」
「(箱入りなんだろ。そんな娘を野放しにするゲゼル家の程度が伺える)」
「(エルヴィン団長が敬遠する理由も分かるというもの。お仕置きしても構わないよね、答えは聞いてない)」
「(聞け。頼むから待て。さっき正気に戻ったはずだ)」
「(お陰様で目が覚めた。いやはや、もう一度あの台詞を聞きたいと思って)」
「(金輪際言わないと約束しよう)」
そろそろヒステリックも落ち着いてきただろうか。そんな気は全くしないのだが悲しいかなはこの場を収める責任がある。
因果応報。咄嗟の事とはいえグラスを叩き割るべきではなかったのだ。何らかの薬入りの水はテラスの外へ流し捨てるなりすれば気付かれずにやり過ごせただろう。
尻拭いは己の手で致す所存。さて、反撃と行きますか。と、口を開きかけたその時である。
この場のみならず、恐らく室内にまで轟いたであろう耳を劈く音がその場を支配した。
「如何なさいましたか?」
次いで駆けつけた給仕が何事かと問いかけてくる。開かれた扉の奥では訝しげに眉を寄せ此方を窺う視線の数々。
その合間から足早に向かってくる人物はエルヴィンか。まぁいい。事情聴取は二の次だ。
両手を肩の高さまで上げ苦笑する。身を竦め驚愕を顕にするご令嬢。そんなふたりを他所にリヴァイはなに食わぬ顔で口を開いた。
「……こんな風に、手が滑った。だがそれはそいつがやった事ではない。折角の厚意を無下にした事は謝るが、続けたいのなら好きにするといい」
散らばるグラスの破片。一体どこから現れたのか考えるまでもない。リヴァイが持っていた空のグラスであり、叩きつけたのも彼本人の仕業である。
注目する好奇な眼差しが突き刺さる現状。効果は抜群だ。羞恥と共に怯んだご令嬢は足早に去っていく。
入れ違いにやって来たエルヴィンが給仕に詫びを入れ、暫くののちテラスには静寂が戻った。扉を隔てた室内の人間たちの関心は既に無い。
それを見計らい場所を変え神妙な面持ちでリヴァイとを交互に見遣り、重々しくエルヴィンが口を開いた。
「どちらでも構わない、可及的速やかに明確な説明を」
「話すと長くなるが要するにアレがアレでアレだった」
「いや〜、兵士長様に助けてもらっちゃいましたねぇ。すみません、お怪我はありませんか? とんだ騒ぎになって不本意でしょうし僕はこれで――」
ところがどっこい。ふたりの華麗なる連携プレイは空気を知らない。
「ふたりとも、冗談で誤魔化すべき状況ではないと理解している筈だ」
「ひとりで逃げようとしてんじゃねぇ。俺も連れて行け」
「逃げる時は後ろを振り返ってはいけない。我が身可愛さ故に私は貴方を生贄にする事も辞さない」
剰え、執拗に続く。
「待て」「無理」「お前が俺に力で勝てると思っているのか?」「これだから脳筋は。何でもかんでも力でねじ伏せようとするのは貴方の悪い癖」
「そりゃお前の聞き分けが悪いからだろうが」「無理難題を強いられては拒否する他ない。よって私は悪くない」「相方を見捨てて逃げるのは悪ではないとでも?」
「今は相方じゃない上に必要な犠牲だと割り切っているだけ」「俺を犠牲にするな見捨てるな後ろからの重圧が冗談では済まされないところまできている気がしてならん振り向いたら終わる」「それは私も同じ引っ張らないで早く腕を離してまだ死にたくない私は生きていたい」云々。
目の前でわちゃわちゃとコント紛いなものを見せつけられ、事が事なだけありエルヴィンの堪忍袋の緒ははち切れる寸前だ。
冗談さえ交えずに素直に話していればいいものを、このふたりはなかなかどうして交えずにはいられないのか。呆れる他ない。
人を、と言うよりエルヴィンをおちょくるのが好きなのだろうか。ならば期待に添えなくてはならない。滅多に拝めないであろうエルヴィンの憤怒がふたりに降り注いだ。
「……これが最終通告だ。まだ冗談を続けるのであれば――」
潮時である。まるで地鳴りが聞こえてきそうな程剣呑な響きを孕む声音に、ふたりはピタリとふざけるのを止め瞬時に整列をば。
「お呼でもねぇ奴が来て最初はが穏便に済ましたが水に薬を盛られている事に気づいて処理し」
「再びやって来たゲゼル嬢に知られてしまい難癖をつけられた挙句喚き散らされてしまったのでリヴァイが機転を利かせその場を収めるに至った次第でございます」
お前たちの思考は似ているを通り越して繋がっているのかと問いたい。
再び華麗なる連携プレーで口速に事のあらましを説明するふたり。
最初からそうしろ。エルヴィンの憤怒は掻き消えた。慣れたものよ。
「そうか。取り敢えずお前たちの失態は後々追及するとし、一時的にも騒ぎを起こしてしまった事についてどう処理する気でいるのか問おう」
「やっちまったもんに兎や角言っても仕方がねぇ。現状を真摯に受け止めまずはベーレンス家に謝罪するのが先決だろう」
「中ではゲゼル嬢が吹聴して回っていると思われます。なので同時に事態の収拾を視野に入れて動かなければなりません」
「そうか。したがってお前たちが為すべきことは?」
「逃げる」
「逃げます」
「そうか。帰ったら懲罰房行きだな」
「何故そうなる」
「解せません」
「そうか。まだふざけているようだな」
「俺はゲゼル嬢中心に周囲へのフォローを」
「私は中立を保ちながらそこはかとなくフォローしつつベーレンス家当主に謝罪を」
「そうか。そこで調査兵団団長の役目は何か言ってみなさい」
「生贄」
「生贄」
「いいだろう。己の立場と私の苦労を確と理解し反省するのであれば懲罰房行きは取り下げよう」
「安心しろ、お前という犠牲を無駄にしない為にも必ず反省する」
「これからの行動で示します」
「方針は決まったな。直ちに作戦を決行する。各自散開せよ」
「了解だ」
「了解しました」
この時、ここまでくるのに長かったなぁ、とふたりは己の悪ノリを棚に上げぼやいたとかなんとか。
頭の回るルーニー程タチが悪いとはこのことを言う。否、今のは完全完璧悪ふざけでしかなかったのだが。
「すまなかったな、俺が手を滑らせたばかりに。ゲゼル嬢にも詫びを入れておきたい」
「いやぁ、僕なんて何もできませんでしたし。こうして和解できて良かったです。一緒に探しましょう」
「ベーレンス家を巻き込む形になってしまったな。私は先に行っているよ」
各々室内に戻り騒ぎの解決を周囲に知らしめるように会話を交わしながら散開する。
リヴァイとはゲゼル嬢の下へ。
エルヴィンは先にレーベンス家当主の下へ。
作戦の甲斐もあってか蟠りを残すことなく今宵の夜会は終わる。宿に戻った一行は倦怠感に襲われ報告会もそこそこに割り当てられた部屋へ向かったという。
♂♀
(ならもっと穏便且つスマートに事を運べただろう。しかし俺はあの方法をでしかそれが出来ない)
力任せに、粗暴に。ランプの灯りに照らされた手を眺めながらベッドに寝転がるリヴァイは、名状しがたいもどかしさに臍を噛む。
浴室からはシャワーの音が絶え間なく聞こえてくる。念入りな変装なだけあり解くのに時間が掛かっているのだろう、今はそれが無性に都合が良かった。
だが如何せんひとりになると忘れていたはずの記憶が蘇ってくる。眠気はあるものの寝付けない、そんな煩わしい時だからこそ、気が重くなるような記憶は心を蝕んでいくものだ。
テラスでの一件。それだけではない事は言わずもがな。
あの時は反撃に打って出る直前だった。トラブルへの対処は経験則ゆえか、短い時間で考案しそれを為してみせる力量がある。
だが己はそれを遮り行動に出た。別に庇うなぞと偽善を主張する気は無い。ただ瞬時に思いついたものがあの行動だっただけで。
――否。取り繕うのはやめよう。正直なところ、今日だけで積み重なったもどかしさが抑えきれずに爆発したのだ。
あの一瞬。何かが切れる音を確かに聞いた。次いで耳を劈く音、ハッと我に返る己。決して冷静だったとは言えない行い。
だからこそ今、自己嫌悪に陥っている。頭を冷やすべきはではなく己の方だったと。
「癇癪起こすガキか、俺は」
イライラしたからグラスを放ったのではない。イライラしたから早急にその場を収めようと強硬手段に出た。
うるせぇ、喚くな、聞く耳を持たねぇのなら再現してやるよ。その結果がアレだ。余計な手間と気苦労を増やしただけではないか。
(自分を抑制するなんて、とうの昔にできていた筈だ。だがあいつを前にするとなかなかどうして抑えが効かないのか……)
人間誰しも憤ることはある。あのだってリヴァイが止めなければどうなっていたことか。いや、そもそも己が水への工作に気づいていれば云々。
甚だ不毛な無限ループ。それを断ち切ったのはシャワーを浴び終えたの存在だった。
「何故居るの」
タオルでガシガシと男気たっぷりに頭を拭きながら佇む彼女は、据わる目でリヴァイに至極全うな疑問を投げかけ。
それが合図となりふたりの押し問答の火蓋が切って落とされた。
「ここは俺の場所だ」
「そんなわけない。ここは私にあてがわれた部屋。とうとうボケが始まったの」
「ボケるのはいつもの事だろ。ツッコミもするがな」
「そうじゃない。そういう事じゃないよリヴァイ。何故貴方が私の寝床に居るのか訊いているのだけれども」
「“ここ”は俺の場所だ」
「把握した。“ここ”とは部屋ではなくベッドのことだけを主張している、と。もはやツッコミを入れる気力がないから簡潔に言う。“帰れ”」
「つれねぇな、よ」
「貴方も疲れている癖によくやるねぇ……残念だけれども、付き合ってる余裕は無いから早くそこを退いて。寝たい」
「聖域でもない場所じゃ寝れねぇだろうが。添い寝してやるからさっさと来い」
「貴様正気か」
「正気以外に何があるってんだ」
「…………もう、好きにして……」
結局折れたのはの方だ。梃子でも動こうとしないリヴァイに何を言っても無駄であるからして、せめてベッドのど真ん中を占領するなと訴えたかったがやはり止めた。
意外にもリヴァイはが布団に潜ろうとすればランプを消し場所を開ける。そのまま引き込まれると予想していたのだが、どうやら手を出す気は無いようで。
些か警戒しながらも寝転がれば平穏無事な就寝タイムへと突入。なんと恐ろしいことか。寝技をかけられるでもなく、むしろ彼は背を向けているなぞ。
(平和だ……だけど何故だろうか。調子が狂う)
外泊先でも添い寝をする事に後ろめたさはあるけれど、“らしくない”状況に混乱する他ない。あぁ駄目だ、気になって寝れられないではないか。
だからといって藪を突く元気はないのだが。
(まるで喧嘩中のカップルだな。ただのだいすきな仲良しなのだけれども)
それから数分が経っただろうか。先に沈黙を破ったのはリヴァイの身じろぐ音だった。気配で分かる。
我慢していたのだが居ても立ってもいられず、観念しての方に向き直ったのだと。
一体全体何をしているのだろう。いつもなら好き放題に振舞う癖に。
は控えめに半乾きの髪を弄られながらそんな事を思う。
次第に暗闇に目が慣れ彼の方を盗み見てやろう、としたが既で抑えた。
ここは寝たふりをした方がいいような気がして。起きているなぞ知られているのだが。
こうしていても埒が明かない。混乱の原因を追及しようと口を開きかけた。だが。
「すまない……お前にも余計な気苦労を掛けた」
あぁ、なるほど、と。ここに留まるリヴァイの真意を知ったは、冗談で流せる空気ではないと察し、己も言おうとしていた言葉を告げる。
「私が相手をしていたらもっと時間が掛かっていた。それか更に騒ぎが大きくなって後処理が大変になっていたかもしれない。それ以前に頭に血がのぼっていて配慮に欠けていた私の責任だからむしろ謝るのは私の方。それと、色々と助けてくれてありがとう、リヴァイ」
彼は詫びを入れたいが為にベッドに居座り梃子でも動かなかったのだ。寝技を掛けなかったのはその意思表示と。
未だかつてこんないじらしい姿を見たことがあっただろうか。恐らく無い筈。いつもなら回りくどいマネなどせず普通に謝ってくる筈である。
まさか力技に対しての指摘を気にしてこのようないじらしい態度をとっている、なんて。何この人類最強可愛い。
でも調子が狂うから1年に1度だけにして。本音は胸に仕舞うであった。
一方、詫びたら逆に感謝されたリヴァイは身に覚えがあるような無いような、己のことでいっぱいだったが為に忘れかけていた事柄を思い返す。
彼にとっては何でもないような些細な出来事。だからだろうか。
「……お前が言うと嫌味にしか聞こえんな」
口を衝いて出たのは少々弄れたもので。別に非難ではなくどちらかといえば自嘲の意が篭められていたのだが。
「私にとっては大いに感謝すべき事だった。グラスの件だってそう、謝辞を受け取ってくれないのなら此方にも考えがある」
「お前がどう打って出てくるのか興味はあるが、よせ。分かった。素直に受け取る。だから出ていこうとするな」
まったくこれだから寝技を掛けずにはいられまい。上体を起こし本気で布団から出ようするを引き寄せ全身で拘束する。
腕の中から色気もへったくれもない呻き声が聞こえたが無視だ。跡形もなくリヴァイのいじらしさが掻き消えた瞬間であった。
(私は、みなが言うように本当にマゾヒストなのだろうか……)
――この痛みが心地よいと思うなぞ。否。いつも通りのリヴァイに戻ったからだとは言うに及ばず。
己が嗾けた事だ、本質を見誤ってはならない。
(やられた……こいつに嵌められるとは……このお人好しめ)
――自己嫌悪に気落ちするリヴァイを元通りにしようと、故意に寝技を掛けざるを得ない流れに持ってくる手腕に言葉も出まい。
今回は痛み分けといったところか。お互いに罪の意識はあれど、終わり良ければすべて良しだ。
は己の失態を、リヴァイは己の恥じを悔いては互で補い合う。今はそれでいいと、納得できる関係がこの上なく、心地よかった。
――お互いの生きてきた環境の違いにもどかしさを募らせる男が居た。
「正直、お前の育ちの良さに引け目を感じる時がある……隣に立つことを躊躇しちまうくらいの、な」
「……この技術は全て後天的なもの。私の本性は並べられた料理をひと口ずつつまみ食いして飽きたら庭のベンチで寝転がる、そんな傍若無人で」
「…………」
「当時は両親と暮らした時間がひどく、恋しく思っていた。何故自分はこんな事をしなくてはならないのか、両親の下へ行くのも良いとさえ思っていた時期もあった」
――お互いの生きてきた環境の違いに思うところはあれどそういうものだと割り切っている女が居た。
「その場に応じた立ち振る舞いも技術もやむを得ずと言うか……必要に迫られたというか……身につけざるを得ないただの処世術でしかなくて、でもその経験があったからこそ今ここに存在できているわけで」
「……知っているつもりだ」
「それに引け目を感じて欲しくはない。望む望まないを別として、ただ私は礼儀作法とかを“身につける機会があった”というだけ。それに身につけるだけならいつだって出来る。私のはただの技術でしかない。根っからの雅馴さじゃない。全部努力の賜物。褒めるなら兎も角、引け目を感じられる謂れはないんだよ。今でこそ身につけられて良かったとは思うけれど、もしこれが無かったら私は貴方の戦闘能力の方がよっぽど羨ましい」
「なるほどな……俺が戦う術に対して“成るべくしてなっただけの事に買いかぶり過ぎだ”と思うように、お前もそう思っているというわけか」
「うぃ。十人十色。私は私、貴方は貴方。みんな違うからこその適材適所。ただそれだけなんだよ。地上に生まれたからと言って全員の育ちが良いわけでも幸運なわけでもない、売られちゃう事だってあるしね。なんて、地上生まれ地上育ちの私が言っても説得力に欠けるけれど」
「地下街生まれは地下街しか知らない。だが地上生まれが地下街に放り込まれれば絶望と同義だ。お前はそれと似た境遇を経験した。そこには想像を絶するほどのものがあった筈だ」
「さぁどうだろうか。でもここだけの話、こんな自分も人生も嫌いじゃない。確かに当時は辛かった。だけどそんな辛い日々の中にも喜びや希望があった……貴方もそうでしょ」
「あぁ……そう、だな。クソみてぇな場所でも、全てを嫌悪するにはあまりにも小奇麗な部分がありすぎる」
――ふたりは住む世界が違えど共通する点を見いだしては、受け入れ合う。否定も嫌悪もせず。何も思い悩む事はない。大切なのは“今”だ。
「過去がどうであれ本性を曝け出せる場所ができた。気の置けない人の前、聖域エトセトラ……随分と増えたもの。これも全て過去から今に繋がるからこそ自分が恵まれている、恵まれていたのだと自負できる。この上ない、幸福」
「そこに俺は――存在するのか?」
「私の本性は“知る人ぞ知る”密なる姿、だと意識しているのだけれども」
「……そうだったな」
――出会うべくして出会ったのがかつての場所ではなく、この場所だった。それに意味があるのなら、過去さえも己の糧とし強みに変え尊重し合えばいい。
「リヴァイ、貴方も同じだと思っている。これは私の勘違いなのだろうか」
「は……愚問だな」
「そう……ありがとう」
――忘れることなかれ。過去から繋がる今へ、全ては価値あるものなのだから。
END.
―余談:それは諸刃の剣―
帰りの道中、私は自分の言動を思い返しながら思案に耽る事にした。
みな一様に疲れもあってか口を閉ざしているのだ、正直暇を持て余しているわけで。
なんて。実際のところ勝手に考えてしまうだけだったりする。考えたくもない事を、ただ徒に。
幼少期、私はレストランに引き取られ礼儀作法からマナー、接客技術など一般家庭には必要のないものばかりを教わった。料理はその限りではない。
その後、商会に売られてから必要に迫られ処世術として周りの大人たちは勿論のこと浮浪者、給仕、貧困層、生産者、ゴロツキエトセトラ。
その“一挙手一投足”を血眼になって研究した。
何処ででも溶け込めるように。男装を中心としたのは、幸か不幸か人知れず虐待を受けていた私の体は同年代の子供と比べてあまり発育がよろしくなかったのもある。
別に性別を偽らずとも問題は無かったと言えばそうだ。だけど自分にとってあの世界は男の方が都合が良かった。ただそれだけだ。
それよりも他に憂慮すべき点があった。
どんなに粗暴者を演じようともふとした拍子に出てしまう培われた雅馴な仕草が如何せん曲者で。最大の難敵だったといえよう。
時として必要になる場面もあるとはいえ、場所によって役になりきらなければならなず夜な夜な矯正を繰り返し克服に成功。それは様々な“役”を演じる度に繰り返した。
その甲斐あって私は何者にでもなれた。たとえ“本当の自分”を忘れる事になっても適材適所よろしく様々な役を演じ続けた。
お陰で机上に足を投げ出し丹精込めたであろう料理を足蹴にすることだって出来る。
金にものを言わせへりくだる農夫のプライドをズタズタに切り裂くことだって、物乞いのように靴を舐め頭を地面に擦りつけることだって、いとも簡単に他人を蹴落とすことだって。
なんだって出来た。日に日に“”という人間を見失いそうになりながら。偽名を騙り、立場を変え、変装をし、感情を押し殺し。
(きっと、本当の私は両親と暮らしていたあの家にしか居ない、のかもしれない)
調査兵になり役職を与えられエルヴィン団長の駒として働く上で、今までの経験が役立っているという事実は喜ばしい事に変わりがない。
けれども平穏に浸かる日々の中で、時に夢の中で、時に書類にペン先を走らせる瞬間、時に――あの人の声が言葉を紡ぐ瞬間。
「」
分からなくなってしまうのだ。
「――っ、……なに」
その名は一体、誰のものなのかと。私は何者なのかを。
「昨日まで貴族に笑顔を振りまいていたとは思えん程の無表情っぷりだな。普段使いもしねぇ表情筋が筋肉痛にでもなったのか?」
けれども。
「……無表情はデフォ。知っている癖になに、嫌味なの」
「はっ。1日中表情を作ってられるって事は本当のところ鍛えてるだろ、お前」
「まぁそれなりに。さっきからなんなの。ウザ絡みはマジ勘弁」
「……やはり親譲りらしい“それ”の方がしっくりくると思っただけだ」
「私が笑顔では不満があると……」
「違う、そうじゃねぇ。作り笑顔を見るくらいならいっそのこと無表情の方がマシだと言っている。それが“普段のお前”だからな。まぁ、滅多に拝めねぇがたまに見せる自然な笑みも――」
その呼び声で、自分を取り戻せるのも事実で。無意識にも喜びを感じるのも、事実で。
「――っ悪くないが……安売りはよせ。それと不意打ちも、だ」
「注文の多い人だねぇ……結局のところ、私はどんな表情をしていればいいと言うの」
「好きにしろ……作り物でなけりゃ文句は言わん」
「演技中の私に対して不満も文句もありまくりな上に通常時は通常時で注文ばかりだなんて……今後の接し方を考えなくちゃならないねぇ」
「お前という奴はこれだから……1から全部言わなきゃ分からないのか。それをこの俺に、懇切丁寧に説明させてぇのか?」
「自覚していないのかもしれないけれど、貴方は元々結構慰めとかを言葉にしてくれる人だったと記憶している。他はその限りではない」
「あぁ、俺はお前に対して元々結構口に出る。だが時として声に出すのも躊躇っちまう言葉もある。そういうことだ」
「あれれーどんな時だったかなー覚えてないなぁー自分の弱みとかだっけかなー」
「中らずと雖も遠からずだが……白々しい奴め」
それなのに疑いが晴れることはない。恐らくこの先ずっと。性格も口調も物言いも、思考でさえ全て作り物なのではないのかと自問自答を繰り返し続けるのだろう。
自分は決して器用な人間ではないと知っているからこそ。彼らに気を許していると公言しながら、素を曝け出せているのか分からずともそれでも。
「まったく。恥ずかしがらないで素直に『そのいつもの愛らしい無表情の方が落ち着くぜハニー』ぐらい言ったらどうなの」
「これから俺のことをいつでもどこでも『ダーリン』と呼ぶなら吝かでない」
「ナマ言ってすみませんでした」
力を抜き心中穏やかで居られるこの時は。この時だけは、信じたかった。自分が自分であることを。本当のという人間であることを。
都度この人に教えてもらいながら幼い頃の自分の面影を手繰り寄せ、相違点を探して。“素”というものを心と体に刻みつけよう。いつでもどこでも何者になろうとも忘れないように。
「……人は変われる。それは作り物でもなく、成長だ。良くも悪くも……難しく考えなくていい。“素”なんてもんは気を抜いてる時に意図せずとも、自ずと出てくるもんだ。素直に受け入れておけ」
決意を胸に頭を上げた瞬間、独り言のように紡がれた言葉は驚く程すんなりと腑に落ちては水滴の如く広がり心を潤していく。
小窓の向こう側を見つめる瞳は見えなかったけれども、私の心中を察していたことは明白で。
長い間苛まれてきた懐疑心が薄れていくようだった。根深く刻まれたものはさすがに完全に払拭されたわけではないけれど、それでも。
――この人が居れば近い将来、克服できてしまう気がする。
だからだろうか、この人は色々と未熟な私にとって必要不可欠な存在なのだと、この時初めて認識した。
今まで意識していなかっただけなのだけれども、いつからか無意識の内に芽生えていたそれの明確な正体を知ると共に理解したのだ。
決してそれに甘んじる事はないけれど。こっそりリハビリとして頼っても許されるだろうと確信はあった。なんて狡い人間か。申し訳ない。
無論、「今更遅ぇ」なんて文句が飛んできそうだから胸に仕舞っておく。あぁでも隠し通す自信は皆まで言わず。
“互いに”補う合う、だとか色々と大層なことを思っていたのに結局は私に足りない部分が多くて、されど口にしたことも思っている事も全て嘘偽りでもなく本心で。
何者にでもなれる自分は嫌いじゃない。価値ある過去、それが強みだ。だからこそ気まぐれにフラッシュバックしてしまう弱さを克服したいと、切に願う。
私たちを乗せた馬車は緩やかな速度で兵団本部へと進む。今回の任務も滞りなく完遂することが出来たと安堵を胸に、目を瞑りキャスケットのツバを引き下げた。
馬の嘶きも蹄の音も、車輪が煉瓦道を転がる音もあと僅かで止むだろう。
帰ったらまず報告書を書き上げエルヴィン団長に提出して、休暇をもぎ取って。
仕上げは我らが聖域で悠々と睡眠を貪りまくる。完璧だ。
誰かさんの発言で取らぬなんちゃらの皮算用にならないことを祈る他ない。忌々しいものよ。
ツバの端から斜向かいに座るエルヴィン団長を盗み見ては隣を一瞥する。
相変わらず後頭部しか見えないけれども、今は目が合わない方がいい。
何故ならば。
うむ。何故だろう。
END.
おまけ
「…………」
「…………」
「…………そろそろ喋っても構わないだろうか、ふたりとも」
「空気を読んでいたと言うより空気そのものだったな、エルヴィンよ」
「お気を遣わせてしまったようで申し訳ございません」
「(俺への遠慮も随分と変わったな。以前まで俺の前で言い合うとしたら憎まれ口の叩き合い冗談が大半だったが見せ付けてくれる……それでこそ観察のし甲斐があるというものだ)」
「(まぁ、落ち着けよ。俺たちの進展はこれからだ)」
「(もうやだこの人たち転属したい)」
おしり
ATOGAKI
帰りの馬車。隣同士のふたりと向かい側に座るエルヴィン。ふたりとも視線を左右に動かしているのにもかかわらず目の前の彼の存在を忘れてしまっていたというオチ。
否。エルヴィンにとってはちょいと切ないオチになってしまいましたね。まぁ彼は忘れられているのを好機とばかりにふたりのやり取りを見て楽しんでいたわけですが。無論息を殺して。
堂々と観察していたわけであります。
「何故だろうね。恐らく私の存在を思い出してしまった今、リヴァイと目を合わせてしまえば『今までの会話を聞かれた? なにこれ恥ずかしい』と羞恥を自覚してしまうが故に本能が無意識の内に理解しないよう努めているといったところだろうね。というのは私の勝手な解釈だが」
「エルヴィンよ、それはもはや妄想の域だ。俺も人の事は言えねぇがな」
「(転属しよ)」
■真面目なあとがき。
【余談部分】演技のしすぎ(しかも完成度高い)故に主人公は自分を見失うこともある。そんな話。普段は全くそんなことないのだけれども、時たまふとした拍子に混乱してしまう。
売られてからの3年間は特に酷く、慣れてからはその片鱗は身を潜めていたのだけれどもやはりフラッシュバックの如く頭が真っ白になる時だってある。人間だもの。みたいな。
血の滲む思いで身につけたスキルなので(しかも多感な時期に)こんがらがっちゃう頭がパーン\(^o^)/みたいな。そんな部分をピックアップしてみました。
恐らく余談の方がメイン。本編とかは前フリ。そんな気がしてきた。冗談です。本編のまとめ方が雑だったかなと反省してるだけです。
というのをですね。書くつもりは毛頭なかったのですよ。だがしかし。845前に書くと決めている話に繋げられるのではないかと思いつき書いた所存。
某ライナーのような二重人格ではない。そこらへんの書き分けは気をつけました。嘘です。なんも考えてないです。本編ことばかり気にしてました。てへへ。
日記に書くべき補完と裏話とおまけ達でした。あ、日記での話題がなくなった。なんてこったい。